【証言・北方領土】歯舞群島 多楽島・元島民 河田弘登志さん(4)
市役所で領土対策の係に異動
――領土対策の部署に異動した。 私に車を降りろ、って言った市長が、北方領土問題は大切だと。そして市の機構の中に領土対策係をつくったの。私は運転しながらそっちの仕事もやった。たまたま初代の係長になったのが、遊び仲間だったし、入ったときから仲良かったの。同じくらいの年代で。 その人が係になったときにいろんな行事が始まってきたので、係は違うけど手伝ったりしてたんですよ。昭和40年に出来て、42年にね、私たち市の若手と、青年会議所が中心になってキャラバン隊を作った。ですから車を持っている人は車を出す、運転免許持ってるものは運転する。そして車10台ぐらい、20人ぐらいのメンバーで、キャラバン隊やったんです。一番最初に根室出て、オホーツク海側網走の方回って、最終的には小樽余市まで行ったかな。もちろん札幌も入りました。それから2年目には太平洋を回って函館まで行って帰ってきた。 3年目に本州に乗り込んだんです。そのときはマイク付いたセットカー1台とマイクロバス2台チャーターして、函館から青森の大間に入っていった。そのときは秋田で泊まって、次の日から新潟経由して群馬の方に入って、もちろん東京の方も行った。最終的に三重県に行ったんです。それは三重県出身の兵隊さんたちで三重歯舞会を作って一生懸命にやってくれていて、根室に来て私たちと交流持ったりしていた。それで三重県まで行ったりした。 ――領土対策の部署は長かったですか。 私、3代目かな、4代目かな。昭和59年から8年くらいやっていたかな。視察団来たら、1日に3回もバスに乗って案内して、納沙布まで昼食も食べないでやったり、夜もホテルでやったり。それから事業をやらなきゃいけない。すごい体力使ってやっていたの。初代の人は10年やってたのさ。だから「10年やれ」って言ってたから、「いやあ、当時とは違うのさ。仕事の量的にも中身も違うんだから、勘弁してくれ」って。そしたら議会事務局に行って、3年いて退職した。 ――河田さんの人生が見えた気がします。 ハハハハハ。全部話しちゃった。 ※「証言」の中には、現在では適切ではないとされる表現が含まれている場合がありますが、修正などはせずにそのままにしてあります。