【証言・北方領土】歯舞群島 多楽島・元島民 河田弘登志さん(4)
漁師をやめて運転手の仕事へ転向、運送会社から市役所に
――仕事は何をしていましたか。 昔々は漁師ですから、漁船に乗ってました。昭和29年5月10日に大しけ、大遭難があったときがあるでしょ。その前の年に船乗ってたことがあるんです。ちっちゃな船で、15トンの50馬力木造船でね、ざあっと行ったもんです。帰りに10日もかかるようなところ。どこ行ってるかわかんないわけ。計器一つ持ってね、航海したんです。 親たちが帰ってきてから、ボロボロの船でありあわせの網で仕掛け作って、網を入れるでしょ。シケたらね、仕掛けが悪いから全部流されちゃうの。だからシケをめがけてあげにいかなきゃいけないわけ。網を回収するの。それを私と父親とじいさんと3人で出て行く。それを陸(おか)で母親が見てるでしょう。すごいんだから、シケなんだから。船の先の方からともの方まで波で飛ばされたり、それから海に落ちたりしているのを見てるわけだから母親は気が気でないのね。そこへ船で行った。そのときも私たちの船の近くで一艘沈んでる。私も沈むところでしたのさ。うちに帰ってそんなこと言わないけどとうとう降ろされちゃったの。でもまあ仕方がないから陸(おか)上がって。 船に乗っていたとき最低でも、月に1万2万になる。陸に上がったら、月に5000円だよ。運送会社に入ったの。当時運転免許取るっていったら、教科書も何もない。今なら道路交通法一本、試験受けたって構造の問題なんてそんなに出てこないでしょう。当時は構造やらなかったらだめだった。本だってね、一対の部品に英語も日本語でも出てる。場合によっては3つくらいの呼び名で出てるから、ありあわせの集めてきて勉強しなけりゃならない。あのころね、助手についても1年に何回ハンドル持たせてもらえるかわかんない。2年かかって免許取ったころ、少し新しい車が出てきたの。構造が大事っていうのは、そういう車、トラックに乗って山でもどこでも入っていく。エンジンが故障した、シャフト折れたとか自分で直さなきゃなんないの。今ではそんなことないでしょ。 ――運送の仕事は長かったですか。 昭和30年に免許とってね、33年の4月くらいまでやっていたかな。その後は、ちょうど市になった翌年、根室市になったのが昭和32年だから33年に、市長も乗せなきゃなんない、いろんなことに使わなきゃなんないって車1台入った。三菱のワゴン車。それ入ったときに応募したら何とか入れた。運転手で入ったの。それやっていたんですけど、ある日市長に「どうせ勤めるんだったら、もう事務に回れ」と言われてね。9年ぐらいしてから事務に回って。それからまた事務の1年生始まって、でやれやれしているうちに領土対策の方さ。