「釜石の日常」カメラに収め68年 復興2度見つめた写真愛好家、故郷に別れ
海から上る朝日、街並み、製鉄所、住民―。何でも撮った。共通しているのは、その時代時代では当たり前のように見ることができた釜石の日常の風景だということ。津波に町全体が襲われた後となっては、それが貴重な記録となった。
「持ってこれたのは仏壇だけ」
記者が小川さんを訪ねたのは8月下旬。まだ釜石市内の仮設住宅に暮らしているときだった。 「自宅から持ってこれたのはこれだけ」。指差す先には仏壇があった。 小川さんの妻は東日本大震災で、津波の犠牲となった。79歳だった。 「自宅の二階で(地震で散らかった部屋の)片付けをしていたんだけど、ちょっと目を離したすきに(妻は)下の階にいた。いなかった、隣に。『津波きたぞー』って叫んだんだけど、あっという間に津波がきて。『上がれ上がれ』って叫んだんだけど」
小川さん夫婦は戦後まもなく結婚。お見合いだった。 1989年に小川さんが郵便局を定年退職すると、料理好きの妻の念願だった喫茶店を開く。 「手作りケーキの店でね。ちょっとした軽食も作って。カボチャのケーキとか変わったケーキもあって、女の人に人気だった。それこそ郵便局で働いているときの三倍くらい働いた」 評判も上々の店だったが、夫婦の年齢や体調などを考慮して10年ほどで閉店した。残っていた店舗も、2011年の津波の直撃を受け取り壊された。
「もう生きる希望もないというか。避難してからは何も撮りたくなかった」。実際、小川さんは震災後しばらく、シャッターを切れなかった。 「ところが、みんな避難して、同じような境遇の人が助け合って。そしたらみんな元気になって。頑張っている様子を見て『俺もやろう。生きよう』と思った」
最後の作品
小川さんは、釜石の港で撮影した3枚の写真を見せてくれた。写るのはウニ漁をする漁師たち。10月に開かれてる毎年恒例の岩手芸術祭に出すために撮影した組写真だ。震災から5年。一歩ずつ元の生活が戻りつつある釜石の今を表現したという。 「最後の作品だと思っている。(賞を)取れても取れなくても。自分ではいい写真だと思っているけど、どうだろう」