公私の「つてこと」の数々をたどりつつ、人間の生の拠りどころとは何かを考えさせる―角田 光代『方舟を燃やす』鴻巣 友季子による書評
文学の源流にうわさがある。ひとは「つてこと(流言)」に振りまわされる。 一九七〇年代に大流行した「ノストラダムスの大予言」や「口裂け女」の都市伝説。コンピューターが誤作動するという二〇〇〇年問題、災害時に現れる差別的なデマ。米国には影の政府が存在するという陰謀論が根強くある。飛語は今、ネットで文字通り飛び散っていく。 本作は、公私の「つてこと」の数々をたどりつつ、人間の生の拠りどころとは何かを考えさせる。 主人公の一人飛馬(ひうま)は、祖父は大地震を予知して村を救った英雄だと父に聞かされて育つ。母が入院すると、そこでも彼はある傍聞(かたえぎ)きによって人生を左右される。 不三子(ふみこ)は妊娠中に教会経由である料理法に出会って傾倒し、ワクチンも拒否するが、そのことで家族と距離ができてしまう。 カルト教団に入る者、フェイクニュースを信じる者。しかし真偽の境は明確ではない。飛馬の父の教えが史実と反していても、それが彼のささやかな信念であるなら、誰に否定できるだろう。一つの真実、一つの正義などあり得ないのだ。 [書き手] 鴻巣 友季子 翻訳家。訳書にエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ1-5巻』(以上新潮文庫)、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(河出書房新社 世界文学全集2-1)、J.M.クッツェー『恥辱』(ハヤカワepi文庫)、『イエスの幼子時代』『遅い男』、マーガレット・アトウッド『昏き目の暗殺者』『誓願』(以上早川書房)『獄中シェイクスピア劇団』(集英社)、T.H.クック『緋色の記憶』(文春文庫)、ほか多数。文芸評論家、エッセイストとしても活躍し、『カーヴの隅の本棚』(文藝春秋)『熟成する物語たち』(新潮社)『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書)『本の森 翻訳の泉』(作品社)『本の寄り道』(河出書房新社)『全身翻訳家』(ちくま文庫)『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくまプリマー新書)『孕むことば』(中公文庫)『翻訳問答』シリーズ(左右社)、『謎とき『風と共に去りぬ』: 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(新潮社)など、多数の著書がある。 [書籍情報]『方舟を燃やす』 著者:角田 光代 / 出版社:新潮社 / 発売日:2024年02月29日 / ISBN:410434608X 毎日新聞 2024年4月20日掲載
鴻巣 友季子