「絶対無理」と反対されても、鈴木敏文はなぜコンビニを諦めなかったのか
■ 誰も賛成しなかったコンビニ事業 矢野 鈴木会長がコンビニを日本に持ってこられたのも、当時誰も考えない発想でしたよね。 鈴木 私は1963年、30歳の時にヨーカ堂(現・イトーヨーカ堂)に入社したのですが、当時はヨーカドーのような大型スーパーを出店しようとすると、商店街の人たちから非常に反対されました。商店街に出向いてぜひお仲間入りさせていただきたいと挨拶しても、「商店街を潰(つぶ)す気か」って喧嘩腰(けんかごし)に言われるわけですよ。 で、いろいろ考えて、商店街がダメになるのは大型店が出店するだけではないと。もちろんその影響もあるんでしょうけど、時代がこれだけ変わっているのに、従来のままでやっている。私のモットーは「変化対応」ですが、その変化対応が全くできていない。 やっぱり小売店を時代の変化に対応させていかなきゃいけない。共存共栄していくべきだと考えましてね。そんな時、流通先進国であるアメリカの最新事業を学ぶために、何人かの社員で研修に行くことになって、私もその1人として加わりました。ちょうど40歳の時です。そこでコンビニエンスストアというものを見ましてね。それをヒントにして日本でやろうということになったんです。 矢野 何が決め手でしたか? 鈴木 ショッピングセンターを視察する目的で、サンフランシスコからロサンゼルスまでバスで移動する途中、たまたまトイレ休憩に立ち寄ったのがセブン-イレブンでした。スーパーを小型にしたような店で雑貨や食品がいろいろ並んでいる。ただ、その時は「アメリカにもこんな店があるのか」という程度の印象でしかなかった。 帰国後しばらくして、アメリカの商業の実態をいろんな面で調べてみたら、日本よりも遥(はる)かに大型店が普及し、競争の激しいアメリカで、セブン-イレブンは4000店舗もチェーン展開していたんです。驚きと共に、これを日本で適応することができれば、大型店と小型店の共存共栄のモデルを示せるはずだという可能性を感じた。そこからすべてが始まったわけです。 矢野 偶然の出逢いを生かされた。 鈴木 けれども、この案には相当反対がありましてね。当時社長だった伊藤雅俊(取材当時はセブン&アイ・ホールディングス名誉会長)をはじめとして、ダイエーの中内㓛(いさお)さんや西武の堤清二(せいじ)さん、コンサルタントの先生方、誰も賛成しない。日本では絶対無理だと。 だけど、それらをよく聞くと、過去の経験に基づいた反対論ばかりで、未来の可能性は過去の論理では否定できないだろうと生意気にも思ったんです。で、私があんまりしつこく言うものですから、伊藤社長も「それじゃあ実験的にやってみたら」と応じてくれたのがきっかけです。 矢野 鈴木会長の熱意にほだされたのでしょうね。 鈴木敏文(すずき・としふみ) 1932年長野県生まれ。1956年中央大学経済学部卒業後、東京出版販売(現・トーハン)に入社。1963年ヨーカ堂(現・イトーヨーカ堂)に転職。1973年セブンーイレブン・ジャパンを設立し、コンビニエンスストアを全国に広め、日本一の流通グループとして今日まで流通業界を牽引する。2003年イトーヨーカ堂及びセブンーイレブン・ジャパン会長兼CEO就任。同年、勲一等瑞宝章受章、中央大学名誉博士学位授与。2016年5月名誉顧問。 矢野博丈(やの・ひろたけ) 1943年天津生まれ。1966年中央大学理工学部卒業。学生結婚した妻の家業を継いだものの、3年足らずで倒産。その後、9回の転職を重ね、1972年雑貨の移動販売を行う矢野商店を夫婦で創業。1977年大創産業設立。1987年「100円SHOPダイソー」1号店が誕生する。1991年初の直営店を香川県高松市にオープン。1999年売上高1000億円を突破。2000年『企業家俱楽部』主催の『年間優秀企業家賞』を受賞。2018年売上高4548億円で業界シェア56%の業界トップ企業である。2018年3月同会長。2024年2月に死去。
藤尾 秀昭