大脳「前頭葉」機能が不活発、子どものからだと心がおかしい 本来の意味での「子ども時代」がなくなっている
今求められているのは、教育の「遊び化」
――「豊かな子ども時代」を考えていくうえで、今、何が求められているのでしょうか。 子どもたちが、本来の意味での子ども時代をなくしてしまっている今、求められているのは教育の「遊び化」といえるのではないでしょうか。小学校に入学したばかりの子どもたちが、教師の言葉に素直に従う姿を見るとき、私たちは彼らがすでに多くのことを日々の生活や遊びの中で学んできたことに気づかされます。 チョークと黒板ではなく、遊びの中で言葉や社会性を身につける。これは、ホロコーストの犠牲になった子どもたちによる「ガス室ごっこ」、東日本大震災を経験した子どもたちによる「津波ごっこ」に共通する、人間の普遍的な姿です。子どもたちは、遊びを通して厳しい現実を自分なりに理解し、生き抜く力を培ってきたのです。 ――子どもは、自ら学ぶ力をもともと持っているのですよね。 日本では、学校に入ると「遊びは学び」という言葉とは裏腹に、子どもたちは「勉強」という枠組みの中に閉じ込められがちです。「遊んでばかりいないで勉強しなさい」という言葉はよく耳にする言葉ですが、「学んでばかりいないで遊びなさい」という言葉は、ほとんど耳にしません。これは、非常に矛盾していると言えるでしょう。そういう意味では、子どもが子どもらしく生きることができる「子ども時代」をゆっくり、たっぷり保障できるような社会を、一刻も早く構築する必要があるように思います。 ――教育現場では、何ができるでしょうか。 Society5.0時代を見据え、GIGAスクール構想が進んでいます。デジタルを利活用した学びは確かに大切ですが、子どもたちのからだと心の健全な成長のためには、例えば、「2時間スクリーンタイムだったら、2時間は屋外で過ごすグリーンタイムを確保する」くらいの覚悟が必要だと思います。 また、デジタルの利活用により、遠隔地の子どもたちとつながり意見交換するなど協働的な学びが効率よく実現できるようになりましたが、教師と子ども、同級生の子ども同士、高学年と低学年など、タテ、ヨコ、斜めの関係による対面での学びや遊びの時間ーー例えば、休み時間や放課後の校庭などでの“カオス”こそが、教育の本質だと私は思います。 ――「校庭で遊ばせたいけれども、今年の夏は暑すぎて、子どもたちの命を守ることを最優先に考えると遊ばせることができません」という教員の声も聞こえてきます。 子どもたちの命を守ることが最優先ですし、学校のこのような考えを決して否定はしません。ただ、地球温暖化が進む今、この先もずっと、夏の異常な暑さは予想されます。ならば、短期的な視点では、「スプリンクラーがないなら設置し、水をまいて温度を下げる」。もっと大胆に、中長期的に物事を考え、「園や学校の校庭に木を植えて、将来森にする」という構想はどうでしょう。 校庭が森になれば、日陰がたくさんできますから、熱中症アラートが出ても外遊びを禁止しなくて済みますし、地球の温暖化にも多少貢献できます。サッカーや野球は別の場所を確保し、運動会は、地域の競技場を借りて開催する。今、私たち大人には、このくらいの大胆な発想の転換が必要だと思います。私たちはもっと、遊びの可能性に思いをはせるべきなのではないでしょうか。「そんなの無理だよ」と最初からあきらめるのではなく、走りながら考えることが大切だと思います。