佐世保小6殺害事件から20年…家族のケアを担当した新聞記者が回顧
また、どうやって調べたのか、さっちゃんの葬儀の日、ある雑誌記者が奥さんの実家を張り込み、写真を撮られました。その後は急増です。事件以降、泣き通しだったおばあちゃんにも辛く、ご近所にも迷惑が及ぶため、ひっそりと佐世保に戻りました。御手洗さんの元には多くの手紙が届き、私たちが読んで差支えのないものだけ渡しました。中には新興宗教の誘いや中傷に近いものもあったからです。当時はまだSNSが普及する前でしたが、今ならこの比ではないでしょう。そんな被害者側の思いを、身をもって知った日々でした。 ■1か月間続いた「男4人の合宿生活」 その後、御手洗さんとお兄ちゃんは外に出ることもままならず、事件に伴う手続きや買い物などには高原さんと私が出て、家事は大人3人で分担しました。私は主に料理担当でした。本来、御手洗さんを見守ることが高原さんと私の務めでしたから、ずっと他愛のない話をしたり、御手洗さんが撮りためたスポーツのビデオをみんなで見たり。 どこか張り詰めながら、平穏を演じているような日々の、ある夜でした。御手洗さんがテープを選び間違えたのか、家族で撮ったビデオを再生し、生前のさっちゃんも映っていました。高原さんと私は慌てましたが、御手洗さんはあれこれ話しながら、しばらく見ていました。でも、御手洗さんも動揺していたと思います。その後はもう見ることはありませんでした。 けれど、一つ下の階では福岡からの応援記者も加わってごった返し、隣の警察署からは胸を刺すパトカーのサイレンが聞こえ、何よりお兄ちゃんが学校にも通えない生活はすぐに限界がきて、御手洗さんは転居を決めました。支局から離れた暮らしでようやく少しずつ日常を取り戻し、御手洗さんは「心配しなくていい。もう大丈夫だから」と、高原さんと私に帰るように言い、男4人の合宿生活は終わりました。事件から1か月余りが過ぎていました。 ■20年経って知った子供たちの“想い” あれから20年。実は、私には一つ痛恨の思いがあります。下のお兄ちゃんのことです。事件直後からそばにいながら、当時中3だった彼の痛みには寄り添ってあげられなかったことを、当時佐世保支局員だった川名壮志記者の著書で知りました。今月2日、毎日新聞のインタビュー記事にもこうあります。