佐世保小6殺害事件から20年…家族のケアを担当した新聞記者が回顧
私も御手洗さんとは若い頃からの付き合いで、長崎支局勤務当時はデスクとキャップという間柄でした。家も近所で、忙しい時は2人とも帰りが遅くなりますから、御手洗さんのところは奥さんと子ども3人、うちは妻と子ども2人、どちらも父親抜きの計7人で一緒に晩ご飯を食べるような、そんな家族ぐるみの付き合いでした。 だから会社から刻一刻の連絡を受けても、「間違いであってほしい」と願う脳が理解を拒むというか、現実感がありませんでした。局長はそんな私の状況を読んで、「御手洗を死なすな」と強い口調で言ったのでしょう。ハッと目が覚めたのを覚えています。 ■3年前に妻を亡くし…「御手洗を死なすな」 実は、局長が御手洗さんを「死なすな」と言ったのには、事件とは別の事情もありました。御手洗さんはこの3年前、奥さんも病気で亡くし、憔悴しきった御手洗さんを支えたのが子どもたちだったからです。 それは父親としての責任感もそうですが、むしろ本当に子どもたちがお父さんを励まし元気づけ、御手洗さんが「どっちが大人か分らんな」と苦笑いするほどでした。末っ子の一人娘だったさっちゃんまで育て上げることが、当時の御手洗さんのただ一つの人生の目標で、きっと奥さんにも誓ったはずだからです。 佐世保に向かう車中から御手洗さんに連絡し、家とは離れた、とある施設で落ち合いました。佐世保支局は小さなビルで、2階が支局、3階が支局長住宅という造り。しかも隣は、各社の取材拠点となっている佐世保警察署ですから、自宅に帰れば混乱が続くのは必至で、二男(さっちゃんのお兄ちゃん)や支局まで巻き込んでしまう。 父親として、支局長として、それは避けたいという思いと、帰ってくるさっちゃんをせめて静かに休ませてあげたいという思い――御手洗さんの意向を確認して、長崎県内の別の市にあった奥さんの実家に、御手洗さんと二男は当面、移ってもらうことにしました。 御手洗さんの同期入社で親しい高原克之さんも合流して、警察など外部対応は2人が窓口になると決め、県警にもその旨と居所を伝え、司法解剖を終えたさっちゃんのご遺体は、私が引き取りに行きました。さっちゃんが帰ったのは深夜でした。