旧暦6月24日は「関羽」の誕生日? なぜ日本にも‟関帝廟”がたくさんあるのか?
■海を越え、日本各地にも広まった関羽信仰 江戸時代には、『三国志演義』とともに関羽像も日本へ運ばれてきた。その最古の部類に位置するのが長崎の興福寺(1620創建)、崇福寺(1629創建)などで、いずれも黄檗宗の寺院。今も残る古い唐寺だ。 これらは華僑が媽祖(まそ=航海の女神)を祀る祠堂として、長崎の「唐人屋敷」に在住する唐人(中国人)たちが建てた。現在、日本各地に住む華僑(かきょう)の走りである。 その境内に、伽藍神として関帝や韋駄天、恵比寿などが祀られ、毎年5月13日には「関帝祭」が盛大に行なわれた。こうした祭りには地元長崎の町人たちも参加するなど、地域にも根付いていた。 日本が開国後、華僑の多くは長崎を去って神戸や大阪などに移ったが、残った華僑の子孫によって春節祭(長崎ランタンフェスティバル)や中国盆などの行事が催され、今も拠りどころとしての役割を担う。 その後、日本各地に住む華僑たちは、それぞれの地域に関帝像を祀り、関帝廟を造ったりしたが、もっとも大きなものが横浜中華街の関帝廟であろう。幕末の文久2年(1862)、横浜の中国人居留地に木像の関羽像が祀られ、明治4年(1872)には本格的に関帝廟がつくられている。そこでは毎年、関帝誕が開催されるようになったという。 ■なぜ6月24日(旧暦)なのか まず、なぜ誕生日が6月24日(旧暦)なのか。これは今や不明というしかない。正史『三国志』には関羽の生年月日はないし『三国志演義』に享年58歳とあるだけで、生年は延熹3年(160年)と推測できるが、誕生日は不明だ。そこで道教や民間の伝承の出番となるが、これも旧暦5月13日と6月24日の二説がある。 歴史上、中国大陸および台湾においては関羽の生誕日は5月13日とされ、関帝廟などで祭祀がおこなわれてきた。日本の横浜中華街でも、明治時代から毎年5月13日に「関帝誕」が行われていたが、戦災や内部対立などの影響で大規模な祭祀は中断していた。 現在の関帝廟(4代目)が建ってまもない、平成はじめの1992年に関帝誕が復活し、旧暦の6月24日に合わせた日に行われることが慣例化されている。5月13日は関平(関羽の子)にちなむ「関平誕」とされ、熱心な参拝人によるささやかな祭祀が行われている。 「関帝誕」当日は、関羽の魂が入った小さな関羽像を乗せた神輿、それに続いて関平や周倉、龍王などの人形や龍舞が中華街を練り歩く。ほか、太鼓や銅鑼の音に合わせて動き回るなど約4時間にわたるパレードなど非常に盛大な催しだ。 横浜中華街のほかにも、日本には関羽を祀る施設がいくつもある。そのひとつが大阪にある清寿院という黄檗宗(おうばくしゅう)の寺。「大阪関帝廟」と呼ばれるところで、ここでは古来の5月13日(旧暦)を生誕日として「関帝祭」が行われる。 また、神戸の関帝廟では、普度勝会(ふどしょうえ)が行われるが、これはとくに関羽に特化したものではない。旧暦7月の中国盆に合わせた祖先の霊をまつる行事である。 そろばんの発明者といわれるなど、商売繁盛の神といわれることも多い関羽。だが、「義」の権化であり「武」の象徴である関帝の役割は、それだけにとどまらない。信仰の共有、相互扶助意識によるコミュニティ醸成のシンボルこそが関帝廟であり関羽信仰なのである。 【日本における主な関帝廟と関羽像 参拝所】 <東日本> ・函館中華会館(北海道函館市)※内部非公開 ・横浜関帝廟(神奈川県横浜市) ・東京媽祖廟(東京都新宿区) <東海・近畿> 萬福寺(京都府宇治市) 清寿院関帝廟(大阪市天王寺区) 釜ケ崎関帝廟(大阪市西成区) 神戸関帝廟(兵庫県神戸市) 宝林寺(静岡県浜松市)※像のみ <九州・沖縄> 千眼寺(福岡県福岡市) 興福寺(長崎県長崎市) 崇福寺(長崎県長崎市) 聖福寺(長崎県長崎市)※内部非公開 天后堂・観音堂(長崎 唐人屋敷跡) 天尊廟(沖縄県那覇市) 福岡空港国際ターミナル(福岡県福岡市)※像のみ
上永哲矢