旧暦6月24日は「関羽」の誕生日? なぜ日本にも‟関帝廟”がたくさんあるのか?
■時代や国境を越えて、信仰される関羽 関帝誕(かんていたん)を、ご存じだろうか。「三国志」の英雄・関羽(関帝)の生誕を記念する行事で、横浜中華街にある関帝廟(びょう)などで盛大に行なわれる。2024年の関帝誕は7月29日。これは中国の旧暦(農暦・太陰暦)で、6月24日が関羽の誕生日と伝承されているためだという。 この日付の「謎」は後に述べるとして、関羽が「三国志」の枠を超え、国境も超えて「関帝」として神格化されているのはなぜなのだろうか。 正史『三国志』を読む限り、関羽は張飛と並んで「熊虎之将」「万人の敵」と評される。大軍のなかを単騎で突っ切り、顔良を討ち取るなど、ずば抜けた武勇の持ち主だったことは確かだ。が、剛情で自信過剰、猪突猛進的な性格で欠点も多かったとある。少なくとも、当代随一といえるほどの名将のようには書かれていない。 ただ、唐代の「武廟六十四将」に、三国時代からは関羽張飛のほか、張遼や陸遜なども選ばれている。また中国史全体では王翦(おうせん)、李牧(りぼく)、韓信(かんしん)、馬援(ばえん)、尉遅恭(うっちきょう)、李靖(りせい)など枚挙に暇がないほどの名将がゴロゴロいる。そのなかで、なぜ関羽だけが神になり得たのか。 それはひとえに正史に刻まれた関羽の「義」、並びに「三国志演義」のという作品の人気に尽きよう。つまり彼は曹操という当代の第一人者に厚遇されながらも、根無し草同然だった劉備のもとへ帰ったこと。それは当時としても特筆すべき義侠の行為だった。それが語り継がれ、物語に昇華され『三国志演義』の構成の目玉にまでなった。そして、あらゆる読者層の心を掴むに至るのだが、その流れを追って行こう。 219年に関羽が没したのち、蜀帝・劉禅が関羽に壮繆候(そうぼくこう)の謚を授けている。これは功臣としての顕彰で、神格化されたわけではない。曹操があちこちに関帝廟を建てたという逸話もあるが、あくまで民間伝承だ。 その後、講談や演劇で『三国志』が物語化していくにつれ、大衆は諸葛亮しかり関羽しかり、三国の最小勢力だった蜀漢の人物に心を寄せるようになる。それが国家レベルの崇拝対象になっていくのだが、その嚆矢が宋代の皇帝・徽宗(きそう/1082~1135)である。文学に造詣の深かった徽宗は「忠恵公」という号を関羽に贈った。すなわち『三国志演義』の普及・広まりとともに歴代の皇帝や王たちまでが関羽ファンになり、関羽の格上げを行なったのだ。 それは、もちろん政治的にも利用された。南宋時代には「義勇武安王」、次の明代には異民族の侵攻より国家を護る「役割」を期待され「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」などの号が与えられた。公から王になり、ついには「帝」になってしまった。そして清代に入ると「忠義神武関聖大帝」と、現代まで伝わる関帝像を象徴するような号が贈られた。関羽の武勇に裏打ちされた「忠義」を称揚し、模範とすることは、忠臣を必要とする権力者にとって都合が良かったのである。 異民族の国家である清王朝は漢民族の英雄・関羽を尊重し、祀ることで民衆の支持を得た。ことに、それは国家レベルで重用された山西商人たちとの結びつきも大きい。山西省は関羽の出身地であり、その特産品は塩である。塩の専売で莫大な利益をあげ、中国各地にネットワークを持っていた彼らが、各地に地元の英雄・関羽の功績を広め、神格化にひと役買ったという話もある。 出生地の山西省・運城市に解州関帝廟があるが、その規模は国内随一と思われるほど、ひときわ立派なものである。関羽の祀堂が中国大陸のあちこちに造られ、それが今でも多く残っている。 関羽の首塚である洛陽の「関林」、胴体があると伝わる当陽の「関陵」、統治していた荊州関帝廟などがその代表だ。こうした祀堂が破壊や消滅を免れて守られてきたあたり、いかに大切にされてきたかがわかる。