独完全移籍のFC東京DF室屋成がラストマッチで残した”置き土産”とは?
試合後に開催された壮行セレモニー。約4年半在籍したFC東京でタイトルを獲得できなかったことをファン・サポーターの前で残念がりながらも、室屋自身にとっても青天の霹靂だった、ハノーファーから1週間ほど前に届いたオファーをほぼ即決したときの偽らざる心境を打ち明けている。 「自分の夢であるとか、自分がまだしたことのない経験をしたいという強い思いがあり、オファーを断ることができませんでした」 青森山田高2年で攻撃的MFから転向したサイドバックに、どんどん魅せられていった。卒業時には清水エスパルスからオファーを受けながらも、長友佑都をサイドバックとして開花させ、日本代表だけでなくヨーロッパへと羽ばたかせた明治大学で濃密な経験を積む道を選択した。 そして、政治経済学部4年生への進級を目前に控えていた2016年1月に室屋は体育会サッカー部を退部し、オファーを受けていたFC東京への加入を決断する。攻守両面でまだまだ甘い部分があると認めながらも、大学生とプロの「二足の草鞋」を選んだ室屋はこんな言葉を残している。 「サッカー選手である以上は、いずれは海外でプレーしたいという気持ちはもちろんあります。ドイツなどでは日本人のサイドバックが評価されているので、少なからずチャンスがあると思っています」 くしくも4年半前に名前をあげたドイツの地で新たな挑戦をスタートさせる。明治大学体育会サッカー部を3年時で退部し、FC東京をへてヨーロッパに挑むルートは長友と同じだが、長友が加入したチェゼーナがセリエAだったのに対して、室屋は2部のハノーファーが新天地になる。ただ、26歳とサッカー界では決して若くはない年齢を考えたとき、移籍を逡巡する理由は見当たらなかった。
何よりも室屋の視線の先には生まれ育った実家が自転車で5分の距離にある同学年の幼馴染みで、すでにヨーロッパで6年目の挑戦を迎えているMF南野拓実(リヴァプール)が常に存在している。 小学生時代は地元の大阪府熊取町にあるゼッセル熊取FCで切磋琢磨した南野は、中学進学とともにセレッソ大阪のジュニアユースへ入団。以来、別々の道を歩んできたなかで、リオデジャネイロ五輪を戦ったU-23代表を含めて、日の丸を背負って顔を合わせるたびにこんな声をかけられてきた。 「寂しいから、早くこっちへ来てくれよ」 ヨーロッパの舞台で一緒に戦おう、という親友からのエールに、室屋も「小さなころから一緒にサッカーを始めた拓実に、いつかは追いつきたい」と思い続けてきた。そして、ハノーファーへの移籍がほぼ決まった段階で南野へ連絡を入れたことを、グランパス戦後のオンライン会見で明かしている。 「拓実も『近くなるな。会えるやん』と喜んでいました。アドバイスは『メンタルっしょ』みたいな感じでしたね」 言葉も文化もすべてが異なる海外で、何よりも大切なのはメンタルだ――南野から檄を飛ばされた室屋は、約2分半におよんだセレモニーの挨拶を「勝利してともに喜んで、負けたときも最後は必ずFC東京コールで自分たちの背中を後押ししてくれたサポーターの方々の愛情を、僕は一生忘れることはありません」と感謝の言葉で締めくくり、慣れ親しんだスタジアムを一周しながら別れを告げた。 「背番号2のユニフォームをもってくれている方や、フラッグに言葉を書いてくれた方もいて、このチームに入って本当によかったと思いました。(新型コロナウイルスの影響で)みなさんが声を出せないところは少し寂しかったですけど、思いはすごく伝わってきました」