熊本を襲った大地震、53歳で負った大ケガ 地元バンク再開直前に強制引退迎えた元競輪選手が貫いたポリシー
2024年7月、熊本地震で被災し本場開催を中止していた熊本競輪場が8年ぶりに再開した。その陰で、熊本をホームバンクとする63期の礒田義則さんは、6月末をもって35年の現役生活を終えた。半年に1度、成績下位30名が強制引退となる“代謝制度”による引退で、ホームバンクをもう一度走ることは叶わなかった。7月20日、再開初日の熊本競輪場を訪れた礒田さんの口から語られたのは、“競輪選手としての矜持”だった。(取材・構成 netkeirin編集部)
“父の夢”叶えるかたちで競輪界へ
35年の現役生活、55歳まで走り続けた礒田さん。デビューは1989年で、車券売上が2兆円に迫る競輪界が非常に盛り上がっていた時代だった。 「もともと親父が競輪選手になりたかったらしいんです。でも家族に反対されて、夢を諦めた。それで、子どもに競輪選手になってほしいという願いがありました。私が選手になって、親父は喜んでくれました。母はケガを心配していましたが、見守ってくれていました」 20歳のとき、豊橋競輪場で行われた「新人リーグ」でデビュー。当時は新人リーグの結果で本格デビュー時の級班分けがされていた。しかし、デビュー2戦目で礒田さんは落車棄権してしまう。 「ショックでした。怖かったですよ。でも落車の恐怖に勝つためには、痛くても次の日も走ったほうがいいと」 陸上競技からの転向で適性試験で競輪学校に入った礒田さんはレース経験の少なさに焦りもあったことから、落車の翌日も出場。根性で走り切り、デビュー節を終えた。 デビュー年の9月に挙げたA級初勝利とその10年後に挙げたA級初優勝、そして2002年のS級初勝利の地は、奇しくも同じ防府競輪場だった。 「私はS級の経験は少ないですが、防府は縁がありましたね。一度だけ出られた特別競輪『ふるさとダービー』も防府競輪場で、3日目に1着が取れました。忘れられないバンクです」
忘れられない地元Vと、苦難の時代
現役生活でもっとも思い出に残っているのは、2000年に挙げた地元熊本でのA級優勝だ。 「熊本は最後の直線がとても長い“滑走路バンク”。地元3割増しとはよく言いますが、若いころから先行しても先行しても食われてしまって。どんなに頑張っても1着は少なかったんです。だけどこの一度だけ優勝させてもらって… 一生忘れられません」 熊本競輪場ならではの熱い雰囲気も大好きだった。 「本場ならではの熱気がね。いろんな地方を走ったけど、熊本と近畿はとくにお客さんが熱かったんじゃないかな。厳しい言葉もあったけど、次走るときにはまた応援してくれる。お客さんがいてくれるからこそ私たちも走れると、ありがたく感じていました」 その一方で、車券売上は1991年の1.9兆円をピークに下がり始め、2010年には6300億円まで落ち込んでしまう。 「デビューしたころはどんどん売上が上がって、年金制度や退職金制度がつくられたり、賞金も上がっていい時代でした。でも下がってからは収入面でも苦しみました」 当時、競輪選手は4,500人ほどいた。だが売り上げの低迷で廃止となる競輪場が増え、出走数が減ってしまった。賞金で生活している選手にとって、あまりに影響が大きいことだ。 「トップ選手はそれなりに稼げていたので平均年収は悪くなかったと思うけど、下のクラスはシビアでした。1か月2開催を走るのが基本でしたが、正規あっせんが1本しかなく、あとは追加待ちという時代もあったんです」