タイの無血クーデターから7年 タクシン政権を振り返る
7年前の2006年9月19日、タイで無血クーデターが起こり、時の首相タクシン・チナワット氏が失脚、事実上の亡命をしました。この事件は、二分したタイの政情不安を加速させました。現在でもタクシン氏は海外で生活を送っていますが、現政権のタクシン氏の取り扱い次第で、タイの内政に大きな影響を与えそうです。タクシン元首相は、なぜタイの火種となっているのでしょうか?まずは首相になったいきさつから見ていきます。
タクシン首相誕生と二分されたタイ
タイは1932年、絶対王制から立憲君主制に移行したものの、民主化には程遠い状態でした。王室や官僚、財界、軍ら、一部の権力者が癒着して富を独占し、文民政権が誕生しても、軍部が気に入らなければ度々クーデターが起きていたからです。 そんな体制に風穴を開けたのが、タイ愛国党のタクシン・チナワット党首でした。タクシン党首の施策は、貧困層や地方の農民から大きな支持を呼び、2001年の総選挙で圧勝。タクシン首相が誕生しました。これにより、タクシン政権は王室や官僚、軍などの既得権益層から権益を奪う政策を積極的に実施しました。 既得権益にメスが入った軍部などは面白いはずがありません。しかもタクシン首相自身も、新たな権益を作り、同じことをしてしまいました。ここにタクシン氏の支持団体「反独裁民主統一戦線(UDD)」と反タクシン派の団体「民主市民連合(PAD)」が対立し、国内を二分したのです。
無血クーデターとその後
2006年2月以降、UDDとPAD双方のデモが起こり、軍部は同年9月19日、タクシン首相のアメリカ訪問の隙を狙ってクーデターを決行しました。タクシン首相の追放を目的としたため、戦闘は行われませんでした。無血クーデターです。 軍部が実権を握り、タクシン氏の政党を解党させた後、民政復帰させるも、タクシン氏の流れを汲む政党が選挙で勝利。軍部には誤算でしたが、その後、司法を使って、2008年12月に反タクシン系政党への転換に成功しました。 しかし、それとともにUDDとPADの対立が激しくなり、2010年3~5月の間には死者90名近くを出す事態になりました。混乱は続き、2011年5月に再度の総選挙で折り合いをつけます。そしてタクシン系政権が帰り咲き、一応の決着をみました。
タクシン氏は今も多く支持されていますが、敵も多いです。 現在亡命中のタクシン氏の処遇次第で、今後の治安情勢も変わってくると予想されます。 注目はタクシン系現政権の憲法改正案。タクシン氏への恩赦を加えるか否か?この判断が今後を決めると思われます。 (文責・齋藤聡輝)