「楽に受験できる」「実績やPR重視」は本当か? 噂だらけ「総合型入試と探究」理想と現実のズレ 来年に向け確認を
■基礎学力と探究は切り離されるものではない 「探究に舵を切った」学校では基礎学力をしっかりと身につけさせているのであろうか。 繰り返すが、探究は学び方である。基礎学力と探究は切り離されるものではない。こうした学校の教育でも「大学進学」が教育目標になっているとしたら、その教育はどんどん空洞化し始めているだろう。高校教育が空洞化すれば大学教育も空洞化しかねない。 学校教育は「出口」、つまり卒業後の進路によって縛られる。大学がどのような受験準備を求めるかは高校教育に大きな影響を与える。
それゆえに、高校教育が空洞化する責任の一端は大学にもあるのだ。大学が「学ばない生徒」を生んでいるとしたら大学は「学べない学生」をいかに教育しているか。大学は教育機関である。この矜恃が教育の空洞化を防ぐのではないだろうか。 一方で、「定年退職後は大学で教えたい」と考えるビジネスパーソンはいまだに多い。彼らに「学ばない生徒」「学べない学生」を大学入学後「学ぶ学生」に転換させる覚悟はあるだろうか。 そして、メディアでの誤用が多くてあきれるが、学習者を、中等教育(中学、高校)では「生徒」とし、高等教育(大学、短大、高専等)では「学生」とする。いま一度「生徒」と「学生」の違いを考えてもらいたい。そこには学び方、学ぶ姿勢に大きな違いがあるのだ。
■AI時代だからこそ求められる学生像 時代の変化が激しい現代において、求められる能力は基礎学力、つまり自ら考える力であり幅広い教養である。特に生成AIが発達するにあたって、検証能力が問われる。 それに何を生成AIに求めるかにおいては、主体的に振る舞わないといけない。問いを立てる際は、基礎的な教養がしっかりしているかどうかによって生成AIの回答の深みや確からしさに影響が出てくる。検証能力に関しても、何をどのように検証するかを判断できるかどうかは、つねに幅広い教養があってこそである。