安倍政権の「やまとごころ」 森友加計問題に見る日本政治の文化的矛盾
吉田松陰がとどめおいた大和魂
安倍晋三は、尊敬する人物の第一に吉田松陰をあげている。 明治維新における郷土の英雄である。幼少から秀才であったが、純粋で過激な「志と行動」の人でもあった。本来兵学者であるが、当時の流行でもあった陽明学を修め、佐久間象山に就いて洋学にも興味をもっていた。 「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」(辞世)と詠んでいる。 「大和魂」は本来「やまとごころ」と同義であったが、このころから列島に芽生えたナショナリズムによってかなり武張った趣に変化し、太平洋戦争に至っては「戦力の不足を大和魂で補え」式の神がかった精神主義に陥るのだ。 幕末にやってきた黒船の威容と艦載砲の威力は、幕閣の肝を冷やしたが、ものの分かった人間をおどろかせたのは「蒸気力」であった。それまでの人類が知っていた牛や馬や人や水や風といった動力とはまったく異なる燃焼のエネルギーである。 洋学を知る松陰もその一人であろう。黒船に潜入を試み失敗して幕府に捕縛される。結局、安政の大獄で処刑されたが、その熱誠の大和魂は、攘夷の志士たちに大きな精神的影響を残した。とりわけ、無批判な西洋礼賛を嫌悪して薩摩に降り、西南戦争で賊軍の汚名を着せられた西郷隆盛、そしてその西郷を敬して玄洋社を起こした頭山満など。これが明治から昭和に至る右翼思想の源流となっている。 武蔵の野辺に朽ちた松陰の大和魂は、まさにこの列島にとどめおかれたのだ。獄死の怨念には力がある。菅原道眞、平将門、千利休、西郷隆盛、日本という「家社会」の文化(*2)には、不条理な政争の犠牲となった才能と情熱をどこかで(神もしくはそれに近いものとして)救い上げようとする心情がはたらく(*3)。「文化的無意識」というものだ(*4)。 安倍首相は、憲法改正に臨んで、9条に加えて教育無償化を唱えはじめた。筆者はこれに賛成ではないが、松陰が、身分の分け隔てなく塾生を指導した松下村塾のことを想った。 安倍政権の矛盾の一つは、吉田松陰がとどめおいた「やむにやまれぬ大和魂」の矛盾である。