安倍政権の「やまとごころ」 森友加計問題に見る日本政治の文化的矛盾
「やまとごころ」の政治家
さて、安倍首相の個人的問題に立ち入ろう。 首相を取り巻く人物たちは、ある種の「志」を共有しているように感じる。 それは幕末から維新への志士たち、あるいは昭和クーデターを準備した国士たちが共有したような「愛国と憂国」の感情であり、同じ自民党でも、たとえば田中角栄を取り巻く世俗主義的な人物たちとは、性格が異なっている。 角栄が、小学校しか出ていないという庶民性と、細かい気配り、多額の利得、手厚い恩情による「人たらし」の政治家であったことは知られている。一方、安倍の閨閥は、麻生と並んで政界屈指の華やかさで、その麻生とも縁戚にあたり、宮家ともつながっている。庶民性とは無縁だ。その人脈も、気配り、利得、恩情ではなく、一種の「同志性」によるようだ。政治的影響力も、「金権」という露骨な言葉に代わって、「忖度」という古めかしい日本語が登場した。 第一次安倍内閣において、首相は「美しい国へ」という標語を掲げた。あまり評判が良かったとはいえないのだが、この美しさは、やはり日本的な自然美・伝統美を指しているようで、筆者は「やまとごころ」という言葉を思い浮かべた。 この言葉は『源氏物語』が初出とされ、「素直で柔軟な日本的な心ばえ」を意味し、仏教、儒教、漢学など「からざえ(漢才)」が浸透する以前の、原日本的な心情を指す。 江戸期の国学者本居宣長は「からごころ(漢意)とは、中国風の知識だけではなく、日本人のすべての知識理論の立て方がそれに染まっていることを意味する」(*1)として、それに対する「やまとごころ」を称揚した。 「敷島の大和心を人問はば朝日ににほう山桜花」と詠んでいる。「ソメイヨシノよりヤマザクラがいい」という人も多いが、この歌が効いているのではないか。 明治維新以後、この「漢=中国」が「洋=西欧」に置き換えられたと考えれば分かりやすい。近代日本人は、その知識理論の立て方をすべからくヨーロッパに依拠するところがあり、近現代の「やまとごころ」は、必然的に反西欧の意味をもつ。明治以後、巨大な「西欧の壁」の前で中国の存在感は薄れ、「東洋」として日本に準ずる文化的地位に置かれたのだ。「和魂漢才」から「和魂洋才」へだ。 つまり近現代に生きる意味での「やまとごころ」は、西欧(欧米)を基準とする知識と理論ではなく、情緒と赤心(真心)によって生きようとする「反理知主義」の性格を有し、場合によっては宗教や卜占にも近い精神主義神秘主義の側面をもつ(*2)。 また昨今、中国の経済的軍事的台頭により、「反西欧」に加えて「反中国」が復活し、「やまとごころ」が性格を変えて再び脚光を浴びる傾向もある。この極東の島国は常に、家族的、情緒的ファシズムの遺伝子を抱えているのだ。特に、ロシア、中国、アメリカといった大陸そのもののような国に対して。それは地政学的な必然であるのかもしれない。 したがって安倍政権は、日本を取り巻く国際情勢の現実認識から表層は親米であるが、深層は国粋である。急速に進むグローバル化に軸足を置きつつも、国家主義の潮流を先取りしたかたちで、トランプとメルケルの間に立つ。 安倍内閣の矛盾の一つは、平成の「やまとごころ」と国際スタンダードとの相克である。