安倍政権の「やまとごころ」 森友加計問題に見る日本政治の文化的矛盾
いったい何が起きているのか
幼い子供たちが軍歌を歌い、教育勅語を暗唱するのを聴いて「いったい何が起きているのか」と思ったのは筆者だけではないだろう。そこに首相夫人の写真である。妙な衝撃があった。 森友学園、加計学園といった教育機関への払い下げと許認可をめぐって、首相と夫人とその周辺の、関与と忖度が大きな問題となり、前事務次官の発言をめぐって、官邸と文科省とのギシギシとした軋みが伝わってくる。そして憲法改正に絡んで高等教育の無償化が浮かび上がった。 安倍首相とその周辺が「教育」すなわち日本文化の根幹に立ち入ろうとする姿勢が垣間見える。本論では、ここに露呈した現政権の問題を、日本政治における「文化的矛盾」ととらえたい。 これまでの政争は、すぐれて永田町問題であり、霞が関とマスコミは一歩引いたところにいたが、現在は双方ともに巻き込まれている。官僚も、安倍派と非安倍派に分かれ、マスコミも、単に朝日vs読売といったことでなく記者それぞれで分かれているようだ。あたかも米ソ冷戦構造のように、政界そのものは安倍一強の清風状態だが、官界とマスコミに、かつての「資本主義vs社会主義」のような思想信条の対立を背景とする「代理戦争」が起きているような気がする。 本論は、批判でも擁護でもない。 筆者は、権力はすべて批判するといった反骨の批評家でもなく、政界の裏話を探る情報通ジャーナリストでもなく、文化論を書いてきた人間である。ここではそうした是非の判断を離れて、この政権が抱える問題を近代日本の政治文化論として展開しようと考える。
なぜ閣僚が頼りないのか
まず、閣僚とその周辺の不祥事が続いていることだ。 その特徴は、保守政権にありがちな、その分野での有能豪腕がたたってやりすぎた、あるいは関係者との癒着ぶりが指摘された、といったことでなく、むしろその任の能力を疑問視されていることである。なぜもう少し専門知識のある骨のある閣僚を起用しないのか。官房長官は別として、財務大臣、外務大臣以外の閣僚は、陰が薄い。 首相は、大統領型の総理大臣をイメージしているのであろう。 防衛、憲法など、重要問題は官邸主導で政策決定するので、担当大臣は経験のある族議員より従順な素人の方が扱いやすい。首相自身は、政界にも、財界にも、マスコミにも、幅広い人脈があるのだが、その思想傾向が偏っている。その偏りに支持される人選をとなれば、人材源は限定され、しかも政策的討議に鍛えられていない人物が選定される可能性が高いのだ。 安倍政権の矛盾の一つは、閣僚以外の周辺人事も含めて、その人選に思想的偏りがあることである。