「借金で首が回らないのは幸福」ダイヤ王誕生への道 セシル・ローズ(上)
兄の後を追い、綿花農場を捨てて、ダイヤモンドを探しにアフリカへ
セシル・ローズは1853年、日本でいえば幕末の嘉永6年、英国の牧師の家庭に生まれた。生家は代々農業を営んでいた。17歳のとき、兄を頼ってアフリカに向かう。ダイヤモンドが発見されたばかりの未開の地キンバリーを目指す。 野心家であった兄ヘルバートは綿作をなげうってダイヤモンド探しにゲリクアランドに向かう。1871年(明治4年)にはローズも綿花農場を捨て、兄のあとを追う。 「1869年に『南アフリカの星』と呼ばれる大ダイヤモンドが発見されて以来、ゲリクアランドには無数の投機家が集まった」(鈴木正四著『セシル・ローズと南アルフリカ』) ちょうど20年前、1848年に米カリフォルニアで金山が発見されたとき、世界中から命知らずの冒険家が集まってきたのと同じ現象がアフリカでも起こっていたのである。世界第一のキンバリー鉱山で働いていたとき、ふるさとの母に宛てた手紙が残っている。少し長いが、ローズの野心の大きさを知ることができるので以下に引用する。 「この丘ではほとんど毎日50カラット以上のダイヤが発見されているようです。ただ惜しいことには、その大部分が少し黄色味をおびているので良い値では売れないことです。ダイヤ商人は黄色い石には形や大小を問わず1カラット当たり9ポンドしか払いません。私は土曜日には17カラット8分の5という代物を見つけましたが、これは飛び切り上等ですから100ポンドはもらえると期待しています。…私は1週平均30カラット見つけています。私の貸し鉱区は現在の割合でいけば堀り尽くすには4年はかかるでしょう」 だが、ダイヤ王への道は平坦ではない。世界の経済情勢の変動を反映しながらダイヤ相場が激しく変動するからだ。 1873年末には1カラット当たり4ポンドだったダイヤの相場が翌74年には3ポンドに下落、その次の年には1ポンドにまで暴落する。これは世界最大のダイヤ需要国アメリカが経済恐慌に陥ったためだ。 もう1つの要因は供給量が飛躍的に増えたことによる。規模は小さくても3000を超す業者が採掘に当たったため、過剰生産が目立つようになる。こうなると銀行も警戒してダイヤモンド業者に対して貸し出しをしぶり始める。日本でいえば明治8年、小野組、島田組といった大手金融商が破綻した年で、このころ早くも「世界同時不況」の走りのような現象が起こっていたのだ。 しかし、そんな時代にもローズは決して弱音は吐かない。父に宛てた手紙で「私は手形で首が回らなくなったり、ポンプが破裂したりした時が、一番幸福です」と記す強心蔵ぶりである。 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> ■セシル・ローズ(1853-1902)の横顔 1853年英国ので牧師の家庭で生まれ、1870年南アフリカで綿花を栽培して成功した兄を頼って南アに渡る。「南アフリカの星」と呼ばれる巨大なダイヤモンドが発見された直後で、セシル・ローズ兄弟も鉱山開発に乗り出す。1881年オックスフォード大卒、ロスチャイルド家の資金援助を受けて金鉱を買収、巨富をつかむ。1889年、後に彼の名にちなんでローデシアと呼ばれる地方の開拓のため、女王からイギリス南アフリカ会社設立の特許状を与えられる。1890年ケープ植民地の首相に就任、1902年没、遺言により財産の大半600万ポンドは各種事業に寄付、その1つにオックスフォード大学ローズ奨学金制度がある。