激動の時代彩ったオレンジ色の軌跡 日本初のダブロイド夕刊 夕刊フジの挑戦 プレイバック 夕刊フジ
「事件はいつも、そう都合よく起きはしない。大きな事件は一般紙やテレビ、ラジオでもトップに報じる。新しい夕刊紙でなくとも読者は満足する。それならもっと《旬》で、これから風雲を起こす可能性のある『人』を前面に推したい」
石原慎太郎、36歳。一橋大法学部時代に『太陽の季節』で芥川賞を受賞。弟は石原裕次郎。前年(43年7月)の参議院選挙で史上最高の301万票を獲得してトップ当選。「新党」結成も視野に入れている―というまさに《旬》の中の《旬の男》を山路たちは選んだ。
大新聞とは一味違う本音の新聞。夕刊フジのモットーは「人間を描く」「事件を読者の目の高さで切る」「タブーに縛られない」。それは休刊を迎える日まで変わらない。
■名付け親は阪急のあの人?
「夕刊フジ」の名づけ親は阪急電鉄の総帥? 新夕刊紙の題字を何にするか。テスト版段階で使った「東京ニュース」が第1候補に挙がったが、すでにある出版社が商標登録していたことが判明。白紙の状態が続いていた。
そんなおりの昭和43年10月、フジテレビ社長の鹿内信隆が産経新聞の社長に就任。鹿内には「産経新聞」の社名を「フジ新聞」に変えたい―という思いがあった。ある日、関西テレビの番組審議会に出席した産経新聞編集局長の永田照海が、阪急の総帥・小林米三社長にこんなことを言われた。
「永田くん、鹿内社長は産経新聞をフジ新聞にすると言うてはるそうやないか。阪急や関西テレビは産経新聞やから応援してるのや。フジ新聞なんて、ボクは知りまへんで。そや、永田くん、キミ東京で新しい新聞作るとかいっておったね。あれをフジ新聞にしたらええがな」
こうして新夕刊紙の題字は『夕刊フジ』になったのである。(田所龍一)