激動の時代彩ったオレンジ色の軌跡 日本初のダブロイド夕刊 夕刊フジの挑戦 プレイバック 夕刊フジ
大阪では発行なし。東京のサラリーマンのための夕刊紙。ところが昭和43年初秋、製作実戦部隊として指名されたのは、なんと大阪産経編集局の精鋭たちだった。トップは編集局長の永田照海、紙面作りの責任者は社会部長の山路昭平。山路といえば…ここでまた馬見塚先輩の言を借りよう。
「明治から大正にかけての名ジャーナリストで史論家の山路愛山を祖父に、大阪産経のカミナリ編集局長といわれた山路久三郎を父にもち、文字通り新聞紙にくるまって育ったような」。その山路昭平が怒った。
「なんで大阪にいるオレたちがやらなきゃいけないんだ。東京で作ることになっていただろう!」
だが、山路はそれで逃げる男ではなかった。山路は新聞作りが好きだった。
彼が新聞記者になろうと思ったきっかけは、祖父や父の影響だけではなかった。24年、朝日新聞が夕刊を発行。その1面に掲載された『人物天気図』というコラムの切れ味のいい名文に「オレもこういう人物論が書ける新聞記者になりたい」と思ったという。
「オレに新しい新聞をつくれというのなら、このような『人』を柱にしたものを軸に据えたものにしたい」と山路は思い返した。
山路たち「特別準備本部」のメンバーたちは、創刊までに3度のテスト版を作った。テストといっても《本番》そのもの。1面のニュース記事はもちろん、企画原稿、連載に至るまで、そのまますぐに売り出せる状態だったという。こんな逸話が残っている。
あるテスト版の1面の原稿は44年の東大安田講堂事件。立てこもった学生と、警視庁機動隊との最後の攻防戦を前にした緊迫の安田講堂への潜入ルポだ。記者が支援学生に化け、記者の知人だった東大生に頼み込んで講堂内に潜入した。
大学から依頼を受けた警視庁が約8500人もの機動隊を導入して封鎖解除を行ったのは、それから数日後の1月18日。記者だとバレればリンチを受けるかもしれない、まさに《命がけ》の取材だったという。
山路はここで、ある編集方針を打ち出す。