震災で犠牲「姉と兄を知らない」妹・弟 2人の子の生きた証「つないでいく」父親命を語り継ぐということ【震災30年】
幼くして犠牲となった2人の子どもの生きた証を伝える父親がいる。 新たに授かった妹と弟も一緒に、いまも家族で2人を思い続けている。
■阪神淡路大震災の経験を伝え続ける父
米津勝之さん:これがランドセルね。昔はこんなに小さかったんよランドセル。ここに筆箱があります。漢之(くにゆき)の筆箱です。どうなってますか?えんぴつ削りたてやろ。いつ削ったん?学校に行く前日の16日に削ったそのままの筆箱。 兵庫県芦屋市の小学校で震災の経験を伝えるのは、米津勝之さん(64)。 米津さんは、30年前に起きた阪神淡路大震災で被災。 芦屋市の自宅で、長男の漢之くん(当時7)と深理(みり)ちゃん(当時5)が倒れたタンスの下敷きになって亡くなった。 米津勝之さん:寝る場所が違ったのよ1月16日だけ。その日だけ、私が寝る場所を変えたの。漢之と深理と私と3人で寝ていたんだけど、私の仕事の関係で早く起きないといけないから、私が出やすい場所に寝る場所を変えた。変えてなかったら私はここにいなかったかもしないけど、漢之と深理のどちらかが、地震で亡くならなかったかもしれない。それが当時の一番の後悔。
■来るはずだった「あした」 2人の命を語り継ぐ決意
当時、漢之くんが担任の先生と交わしていた「あのね帳」。 毎日書いていた交換日記は、震災前日の16日に終わったままだ。 漢之くんの「あのね帳」:一月十六日、せんせい、あのね。きょう夕がた、ぼくとおかあさんといもうとで、あさってまでのごはんをつくりました。ぼくがカレーをつくりました。いそがしくてたいへんだったけどたのしかったです。あした、たべるのがたのしみです。 来るはずだった「あした」は来なかった。 絶望の淵に立たされた米津さん。 しかし、震災から1年たったころ、「亡くなった子供たちのためにできることはないか」と、2人の命を「語り継ぐ」ことを決意する。 米津勝之さん(芦屋市追悼式1996年1月):私は漢之と深理の命を受け継がなければならない。短い人生だったけれど、2人の命の分までも、私が生きてやらなければならない。
【関連記事】
- 見つかった夫は「ただ白い灰『こんなお父さんの焼けかすなんていらん』叫んだ」猛火に包まれた長田区鷹取地区 記憶の伝承と地域再生の歩み【震災30年つなぐ未来へ】
- 「死んだ方がどんなに楽やったか」理解されず苦しんだ“震災障害者” 生きる希望となった「よろず相談室」の記録を後世へ【震災30年つなぐ未来へ】
- 能登半島地震で3人の子と妻を失った男性「ちょっとずれていれば今でも元気」 姫路の宮大工は能登のみこしを修復「祭りもう一度」
- 兵庫・斎藤知事「阪神淡路大震災から30年。次の世代に伝えていくことが大事」職員らに年頭あいさつ
- 「何より大事なのはノウハウの蓄積」震災から時間がたっても“防災意識”高める取り組み 兵庫の企業が「おいしい非常食」「防災備蓄できる自販機」