【ラグリパWest】恩返し。伊藤宏明 [レッドハリケーンズ大阪/アシスタントコーチ]
伊藤宏明の端正な顔立ちは変わらない。チョコレート色の肌とも相まって、イケメンが多いサーファーにもひけをとらない。 「もう、50っすよ」 黒い目は笑いでにゅーっと伸びる。正確には今年11月で49歳。いい年の重ね方が伝わってくる。 愛称は名の「ヒロアキ」。先月8月1日からレッドハリケーンズ大阪のアシスタントコーチについた。チーム名の短縮形は「RH大阪」。社会人ラグビー、リーグワンのディビジョン2(二部)に属している。 そのラグビー指導のみでヒロアキの日焼けは作られていない。 「趣味は釣りです」 長男の利江人(りえと)と海にゆく。ヒロアキは主に鯛を狙う。 「僕がさばいて、利江人が調理します」 透き通った白さの刺身、醤油と酒の煮つけ、素揚げ…。伊藤家に嫁げる人は幸せだ。 父を長男は追いかける。楕円球を手にとり、大学は明治、ポジションは司令塔のSO、そして趣味までも同じだ。 「うれしいですね」 利江人は昨年の入学時から紫紺をまとい、公式戦に出場した。U20日本代表でもある。 利江人が生まれた2004年、ヒロアキはすでにプロ選手だった。イタリアのラクイラ、休部したサニックス、クボタ(現S東京ベイ)、そして、RH大阪の前身であるNTTドコモと4チームに10年在籍した。170センチほどの体から繰り出す鋭いステップや正確なキックで日本代表キャップは2を得た。 今いる赤のチームには恩義がある。 「33歳だったのに誘ってくれました」 現役引退は37歳。2013年の春だった。選手としての盛りを過ぎ、チーム生え抜きでもないのに、4年も面倒を見てくれた。 「思いがないと勝たせられません」 ヒロアキは恩返しに血をたぎらせる。 出戻る5か月前、今年3月には関東の丸和運輸機関でのコーチ就任が発表された。自身はリーグワンでの指導を望んでいた。チームは思いを尊重する方向で契約を結んだ。そのため移籍はスムーズだった。 ヒロアキはこのRH大阪で攻撃的な部分を任されている。 「キックのところですね」 エリア獲りや蹴ったボールの再獲得や保持などを落とし込む。 指導者になって10年ほどになる。フルタイムのコーチとして、日野(現・日野RD)で2年、明治では6年を過ごした。母校がいささか長くなったあと、RH大阪が呼び戻してくれた。明治では就任初年度の2018年に22大会ぶりの大学選手権優勝に貢献する。55回大会の決勝は天理に22-17だった。 RH大阪は母体のNTTによる再編成により、2年前に社員中心のチームになった。 「思い切ってラグビーができます。セカンドキャリアの心配をする必要がありません」 プロ選手出身のヒロアキの言葉は重い。 一緒にプレーした才口將太は、フロントでチーム広報の仕事などをしている。 「ヒロアキさんは、練習と試合は同じ状況を作らないといけない、と教えてくれました」 試合前に音楽を聴き、涙を流すのなら、それを日常にする。普段通りの先に勝利がある。 「トップスタンダードを入れてくれました」 そのことを飲みの場でさらっと話す。さりげなさも才口には忘れられない。 そのアドバイスの出発点はサントリー(現・東京SG)である。ヒロアキは新卒の社員選手として5年過ごした。感謝が残る。 「ラグビー選手として育ててもらいました」 同期の「ケイスケ」こと沢木敬介と競い合った。3年目に沢木はCTBからSOに上がった。この年は勝てなかった。4年目は沢木がケガ。5年目はレギュラーを守った。 その5年目の全国社会人大会で優勝する。55回大会の決勝は東芝府中(現BL東京)に38-25。この55回を最後に翌2003年度から社会人大会はトップリーグに変わり、そしてリーグワンに引き継がれた。沢木は現在、横浜Eの監督をつとめている。 この競技をヒロアキが始めたのは小1。大阪の茨木ラグビースクールだった。 「兄貴がやっていました」 4つ上の兄は康裕。主にCTBとして大阪工大高(現・常翔学園)から同志社に進み、社会人のワールドでプレーした。 同じ高校でヒロアキは2年から正SOになる。全国大会は3回戦と8強敗退。2年時の72回大会(1992年度)は茗渓学園に27-36。73回大会は長崎北に13-24だった。 誘ってくれた明治では信野將人のあとを受け、3年から正SOとなる。この年、監督だった北島忠治が95歳で他界した。 「黒襟にして戦いました」 喪を示し、奮闘した結果、大学選手権で優勝する。33回大会(1996年度)の決勝は早稲田に32-22だった。 4年時は準優勝。関東学院に17-30だった。続く35回目の日本選手権は初戦でサントリーに36-58と敗れるが、善戦が上でやる自信を生む。そのサントリーが招いてくれる。本当の意味でのラグビー人生の幕があく。それはRH大阪に至っている。 ヒロアキは関西に単身で戻ってきた。実家から大阪・南港のグラウンドに向かう。 「オカンがごはんを作ってくれています。この年になって、こんな生活があるんか、と新鮮に感じています」 母にとって同居がうれしくないはずがない。関西でのコーチングは親孝行でもある。 そのサポートもあり、ラグビーに没頭する環境ができあがる。ありがたい。 「入替戦で勝つためには、リーグワンのベスト8と対等に戦えないといけません」 RH大阪の大目標「ディビジョン1昇格」に向け、才口に昔話したように、「日々是決戦」の気持ちで過ごしてゆく。