【毎日書評】「ふつうの暮らし」を観察することで見えてくる「日常美学」のすすめ
美術史における「機能美」の否定とは?
一般的な美術作品とは違い、椅子について私たちは、座ってみることで(あるいは座るところを想像してみることで)それを鑑賞できたと感じることができます。 さらには椅子を置くことによって段階的に家という場を成立させ、日常の土台をつくっていくなかで、椅子と私たちは触れ合うことになります。 椅子については、純粋にその形や色の美しさを愛でるというだけではなく、いかに使えるか、という観点を抜きにして捉えることは難しいものです。 かといって、もし私たちが感性による判断を一切排して実用的な観点のみで椅子を見ているとすると、そもそも美術館のような場所で椅子を展示するという発想自体、生まれなかったでしょう。 つまり私たちは、実用的な観点と美的な観点の両方が絡み合った複雑な視線を、椅子をはじめとする家具や日用品に対して向けていると言えそうです。このようにして発見されるモノの美的なよさを、「機能美」と呼びます。(61ページより) しかしこの段階で、「モノが持っている機能美を結びつけられるのか?」という疑問も出てきたとしても不思議ではありません。 “無関心性(美に対して、利益を得ようとしたりせずに“快”の感情を抱く概念)”という観点から美的経験を理解するのであれば、感性を通じてモノと向き合う場合、私たちは「それがなにかの役に立つかどうか」という判断基準を離れる必要がある、とされていたからです。 無関心性という基準が理論的に整えられ、機能と美の問題が切り離されるようになったのは、十八世紀の美学の誕生以降のことです。 古代ギリシャまで遡ると、プラトンは『ヒッピアス(大)』のなかで、ソクラテスに<有用なものは美しく、無用なものは醜い>という考えを語らせています。 これをソクラテス自身は反駁(はんばく)してしまいますが、このような考えが議論の俎上にのるということは、これがある程度ポピュラーなものの見方であったことを示しているでしょう。(61~62ページより) こうした見方のもとでは、あるものが期待されている目的を達成するとき、「それは美しいものだ」と判定されます。つまりそれは、「有用なものこそが美しいものである」という発想(古代ギリシャにおける「美」は現代的な意味よりも幅広いようですが)。 あるものが機能を持つということは、「なんらかの目的を達成するための役割をはたすことができる」ということと同じであるわけです。 たとえばコップは「飲み物を入れる」という機能を持っていますが、それは「飲み物を入れるという目的を達成する」ことを可能にしているのです。(60ページより)