女?男?それとも?多様な性のあり方 ~「トランスジェンダー」のリアル
「戸籍名を4月に変えたんだ。40歳でね。ありふれた女の子の名前から『げん』にしたんだ」 お気に入りの青い太めのジーンズに、緑と白のストライプのTシャツ。頭は丸坊主という出で立ちで、げんはそう話した。生まれたときの生物学的な性は「女」だったが、自分自身を女だと思ったことは一度もない。 げんは静岡県浜松市に住む竹鞄をつくる職人。竹を育て材を取るところからすべて手作業で、年間約50個の竹鞄をつくる。値段は大きいもので1つ10万円前後。年数回、各地の百貨店でげん自らが実演販売をする。昨年秋にはスイスのジュネーブで個展も開いた。「向こうの言葉は、あいさつにも性別が付くんだよ。強烈な違和感があった」と戸惑いながら振り返る。 どうして改名したのか。「実はこの3月に離婚したんだ。相手は男の人でね。29歳のときからだから、結婚生活は11年続いたのかな。この離婚が改名のきっかけ。苗字が変わるなら名前も変えようと思ってね」 げんはどのような人生を歩んできたのだろうか。
「セーラー服を着るのが絶望的な気分」だった中学時代
げんは1974年、浜松市で生まれた。小さい頃に両親が離婚し、母方の祖父母のもとで育てられた。現在60代後半で樹木希林に似た風貌の母親は「物怖じしない子だったね。夏は素っ裸になって走り回って、知らん人が来ても一番に飛び出していくようなね」と、げんの幼少期を振り返る。当時からピンクやヒラヒラの服装には全く興味がなかった。
げんにとって、女子らしさを象徴する中学の制服は大きな苦痛だった。「中学の入学式が近づくと、セーラー服を着るんだぞーとカウントダウンされてるみたいだった。中学に上がるときは絶望的な気分だったね」。髪形も小学生時代のショートカットからやや長くしておかっぱ風にしたが、それでも長髪にはしなかった。 「私はこの子がセーラー服がいやだって全然知らなかったよ」とげんの母親は言う。「いま思うと帰りはいつもジャージだったね。部活終わりでそのまま帰ってきたくらいにしか思ってなかったんだけど」。一方、げんは「制服がいやだなんて当たり前すぎて、特に言うことでもないと思ってた」と振り返る。 当時は「ヤンキーが学校でタバコを吸い、バイクで校庭を走り回り、先生がそれを追いかけていた」ような時代。「授業中に寝てる子は"大人しい子"とされて放置だった。問題にもされなかった」。そんな"大人しい子"の一人だったげんは、先生に何か言われた記憶も、制服の悩みを相談した記憶もない。「今とは時代がぜんぜん違った。今だったら前向きに不登校を選んだと思うけどね」。 高校は県外の全寮制の農業高校に進学した。「中学の延長のような高校生活は嫌だ!って強く思ってたからね」。地元の高校に通うことは全く考えなかった。 敷地内に畑や田んぼがあり、牛や鶏がいる。生徒だけでなく先生も家族と一緒に敷地内に住み、共に農作業をし、共に生活をするユニークな学校だ。「ひと学年20人くらいしかいなくて、全国から個性的でいろんな価値観のやつらが集まっていたしさ。性別関係なくみんな兄弟みたいでね。高校時代はとにかく楽しかった」 卒業後は東京で絵の勉強をしたが、浜松に戻った。動物病院で2年ほど働いた後、デザイン関係の仕事をするために独立。イラスト工房を立ち上げ、企業のホームページデザインやイラスト作成を請け負っていた。