それは生を実感する「不可欠な趣味」か、死んだら意味がない「遊び」か――道なき道を行く危険な登山とままならない会社生活が重なる、芥川賞受賞作【書評】
2024年7月に発表された第171回芥川賞を受賞した松永K三蔵さんの『バリ山行(さんこう)』(講談社)。聞き慣れないタイトルに「?」となり、思わずインドネシアのバリ島やらバリカタのラーメンやらを思い浮かべた人もいるかもしれないが(実は筆者がそうだった)、この「バリ山行」とは登山用語。「バリ」とは「バリエーションルート」の略で、通常の登山ルートではない、道なき道を自分で切り開いて登山する方法のことだ。進むのは波線ルートと呼ばれる熟練者向きの難易度の高いルートや廃道、沢づたい、あるいは地図を見ていけそうなところを登っていくなどやり方はさまざまだが、遭難のリスクも高く「上級者向けの登山方法」なのは間違いない。
そんな言葉をタイトルにした本作は「純文山岳小説」。山岳小説というと、日本アルプスやヒマラヤなど高い峰を舞台に「生」を深く描く小説群が思い浮かぶが、本書の舞台は六甲山系。神戸の街の背後に西から北にかけて屏風のように聳える低山群で(関東の人なら神奈川県の丹沢山系を思い浮かべるといいだろう)、初心者も気軽にトライできる「身近な山」だ。それでもやっぱり「山」というものが、人生を考えさせてくれるから面白い。 主人公の波多は、古くなった建外装修繕を専門とする新田テック建装に、内装リフォーム会社から転職して2年の30代。会社付き合いは苦手な波多だが、前職をリストラされた理由が職場でのコミュニケーション不足にあるようにも思え、ある時同僚に誘われるまま六甲山の登山に参加。職場仲間との山行は思いの外楽しく、やがて社内には正式な「登山部」が発足し波多もメンバーとなった。そんなある日、職場で変人扱いされ孤立している職人気質のベテラン社員・妻鹿(めが)が山行に参加することになる。といっても妻鹿は出発地点には現れず、途中の葉群の中から現れて合流。彼は「バリ山行」をしていたのだ。 なぜそんな危険な登山をやるのか――会社の経営が傾いてリストラの噂が立つようになっても、会社での態度は相変わらずで、週末にはいつも山行へ行く妻鹿。そんな妻鹿が気になって仕方がない波多は、とうとう「バリ山行に連れて行ってほしい」と頼み妻鹿に同行することに。そして挑んだ六甲山は、これまでの登山では味わったことのない美しくも厳しい「自然」を波多に突きつける。 リストラの噂に落ち着かない波多と、我関せずの妻鹿。オシャレな登山着もボロボロになって命の危険に追い込まれる波多と、黙々と道を切り開きひたすら前進する妻鹿。「山は遊びですよ。遊びで死んだら意味ないじゃないですか! 本物の危機は山じゃないですよ。街ですよ! 生活ですよ。妻鹿さんはそれから逃げてるだけじゃないですか!」――臨界点に達した波多の「憤り」は、登山ルートのように規定通りの人生を良しとしながらも、どこかで「それではない道」に憧れる多くの人の心を代弁し、同時にグサリと自らの胸にも突き刺さる。 普通の登山ルートでも自然と向き合う新鮮な感動は味わえるけれど、バリ山行で見出すのはもっと根源的な「生」の実感ともいうべきもの。その強い感触を伝える本書は、山あり谷ありの人生でどうルートを取るか迷った時に、ふと読み返したくなりそうだ。 文=荒井理恵