「金輪際、親子になれないがそれでもいいか」貴乃花光司が語る相撲の原点と父子物語
こんなに自然体でほがらかな貴乃花を見たことがあっただろうか――。 やさしくて大きくて、そして満面の笑顔。平成の大横綱と称された第65代横綱、貴乃花光司。 国民的スターとして不動の人気を誇るが、それゆえ好奇の的にもされた。 記憶に新しい相撲協会との対立、また最近では長男のトラブルに巻き込まれるなど降りかかる受難を前に、「忍」の一文字で生きてきた人だ。愚直で不器用ゆえ誤解を与えることも多い。 一徹で無口な印象の彼が、くつろいだ表情を浮かべ楽しそうにカメラの前で語るのはひさしぶりのことである。 “素顔”の貴乃花が語る「相撲の原点」「父子の物語」。知られざるエピソードを聞いた。 (中村竜太郎/Yahoo!ニュースVoice編集部)
―貴乃花さんは18年に日本相撲協会を退職、翌年には「貴乃花道場」を設立し、相撲道を内外に広めています。コロナ禍のいまはどう過ごされていますか。 貴乃花さん: 講演会も中止になるなど、みなさんと同じように大変です。 もちろん感染防止に最大限配慮して、常時マスクも2枚重ねですし、外出も控えています。1月のCM発表会見もリモートで行いました。 いまはCMやテレビの仕事が中心ですが、道場のイベントでみなさんと触れ合えないのは本当に残念ですね。 四股の踏み方など相撲の基本動作を使っての健康促進や精神の鍛錬を教えたり、小学生のお子さんと一緒に押し相撲したりして楽しみながら学ぶ。汗をかいたあとは、大鍋で作ったあったかいちゃんこを一緒に食べて、ああ、相撲って楽しいなあと感じてもらう共有体験です。 土俵で、子どもたちが力いっぱい押してくるんですが、一心不乱に取り組んでいる子どもたちの眼差しを見ていると、タイムトリップしたように自分の子ども時代を思い出しますね(笑)
あがり症で緊張してしまい負け続けた子供時代
―貴乃花さんはほんとうにお子さん大好きですものね。しかし、タイムスリップとはどういうことですか。 貴乃花さん: 私の父親は先代貴ノ花で、05年に55歳で亡くなりましたけど、大関として大変人気のある力士でした。 けれど私自身は、力士になるつもりはなかった。 最初のきっかけは小学2年の地元・中野のわんぱく相撲。 私は、もともと内気で、静かにひとり遊びするような子どもだったのに、ふとしたことで土俵に上がることになり、緊張している間にあっさり負けちゃったんです。 力士の息子だとみんな知っているから、目の色変えて私を負かそうとやってくる。 しかし実は私、子どもの頃からあがり症で、勝敗どうこうというより緊張しまくりで、父親が強い力士なのに不甲斐ない結果に終わりました。 だからとにかく、相撲はカルチャーショック。 で、初体験以降、毎年のようにわんぱく相撲に参加しましたが、ほとんど負けっぱなし。 楽しいというより、なんでこんなきついことをという気持ちでしたね。大会で優勝するような子ではないし、素質も根性もなかったと思います。 だから、子ども時代は力士になるなんて絶対ありえなかったんです。 ―それがなぜ、力士に? 貴乃花さん: 全国屈指の強豪校、明大中野中学の相撲部に入ったことが大きいですね。 そこで、恩師の武井美男さんに出会えたことです。 非常に厳しい先生でしたが、愛情がそれ以上に強い方で、私の人生に大きな影響を与えてくれました。 先生は「相撲はあらゆるスポーツのなかで一番きつい。また、学生とプロは別物だ」とおっしゃっていて、まずは大学まで進学してそれから考えろ、という指導方法でした。 私の父親も、相撲はあくまでもスポーツ、自身の最終学歴が中卒だったので、息子には大学へ進学し、それから好きな道へ進めばいいという考え。 勉強しろとは言われたことはありませんでしたし、健康で元気でいてくれたらいいという教育方針だったと思います。 中学で、私は強い先輩の胸を借りて相撲部で取り組んでいたのですが、成績はまったく振るいません。 全国大会に行くためには都大会1位にならないといけないのに、3年間、ものの見事に負けていました。 とにかく私は本番に弱くて、いざとなると気が動転して、気がつけば土俵下でひっくり返っている。 稽古で力をつけて、周囲から優勝を狙えると期待されるんだけど、結局しくじりっぱなし。毎回その繰り返しでした。 負けるはずもない相手にもコロッと負ける。やはり精神的なもろさが根底にあったと思います。 だから自分の弱さに打ち勝ちたいという思いがあって、また自分の力を試したいということから、入門しようと思い立ったんですね。