「絶対にみんな喜んで死んでゆくと信じてもらいたい」…特攻に選ばれた若者たちが見せた「出撃前夜」の「あまりに異様な様相」
今年(2024年)は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたる。世界にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後80年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の30年にわたる取材をもとに、日本海軍におけるフィリピン戦線での特攻と当事者たちの思いをシリーズで振り返る。(第2シリーズ第2回) 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…! 前回記事:<「反対するものは、叩き斬る」…「特攻を続ける」ことを決めた大西瀧治郎中将が放った「強烈なことば」>
「こりゃあね、統率の外道だよ」
神風特別攻撃隊敷島隊の戦果が、内地で発表されたのは、昭和19年10月28日午後5時のラジオニュースが最初である。翌29日には、新聞で大々的に報じられた。 11月8日、全国の映画館で公開された「日本ニュース」第二百三十二号では、「海行かば」の旋律に乗せて、敷島隊5名の搭乗員の氏名、続いて 〈神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日○○時「スルアン」島の○○度○○浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦隊の一群を捕捉するや必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈同一隻炎上撃破巡洋艦一隻轟沈の戦果を収め悠久の大義に殉ず 忠烈万世に燦たり 仍(よつ)て茲(ここ)に其の殊勲を認め全軍に布告す 昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武〉 との布告文のテロップが流れ、10月20日のバンバン河原での大西中将との別盃、21日の整列、25日の出撃シーンまでを1日の出来事のように編集して上映された。 出撃シーンでは、谷暢夫一飛曹が詠んだ、 〈身は軽く務重きを思ふとき今は敵艦にただ体当り〉 の辞世が紹介されている。 「神風特別攻撃隊」の命名者が、第一航空艦隊の猪口力平先任参謀であることは、門司副官の回想どおりである。猪口は、 「人間が『かみかぜ』じゃおかしいから『しんぷう』と読むんだ」 といい、以後、フィリピンの現地部隊では「しんぷうとくべつこうげきたい」と呼ばれている。これを、内地に「かみかぜ」と読んだ記事を送稿したのは、同盟通信の小野田政記者である。カタカナの電文で「シンプウ」と送るより「カミカゼ」と送ったほうが、漢字に変換するときの間違いが少ないと判断したためだと思われるが、そのため、内地では「かみかぜとくべつこうげきたい」のほうが一般的な呼称になった。 特攻出撃による戦死者は、敷島隊より先に、久納好孚中尉、佐藤馨上飛曹が出ている。突入に成功したのも、状況証拠から時系列で並べると、菊水隊、朝日隊、次に敷島隊の順である。 それなのになぜ、関大尉が特攻第一号として報じられたのか。門司副官が解説する。 「久納中尉、佐藤上飛曹の場合は、最期を確認されていない『未帰還』で、どこかで生きていることも考慮してすぐに戦死認定とはならない。敷島隊の戦果が司令部に届いたのは、10月25日午後の早い時間で、菊水隊の報告は夕方、朝日隊は報告自体がありません。司令部の時間軸で見るとこうなりますが、要するに、関大尉は、敷島隊の指揮官であると同時に、10月20日、最初に編成された第一神風特別攻撃隊の全体の指揮官でもある。だから、突入時間がどうあれ、最初に報じられるのは関大尉というのが、海軍の筋の通し方としては当然でした」 「特攻」は以後、航空攻撃の恒常的な戦法として終戦まで10ヵ月近くも続くことになるが、猪口先任参謀は、10月27日、大西中将のこんな言葉を聞かされている。 「こんなことをせねばならぬというのは、日本の作戦指導がいかに拙いか、ということを示しているんだよ。――なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」