【光る君へ】夫・藤原宣孝を偲んで紫式部が詠んだ歌とは? 『源氏物語』執筆のきっかけは愛する人との別れだった?
NHK大河ドラマ『光る君へ』の第29回「母として」では、まひろ(紫式部/演:吉高由里子)の夫である藤原宣孝(演:佐々木蔵之介)が病でこの世を去った。喪失感に苛まれるまひろだったが、やがて物語を書き始める。今回は紫式部が書き残した『紫式部日記』から、『源氏物語』誕生の経緯や宣孝を偲んで詠んだと思われる歌をご紹介する。 ■1000年の時を越えて読み継がれる長編小説『源氏物語』の誕生 紫式部は、日本の古典文学を代表する『源氏物語』の作者としてあまりに有名です。しかしながら、『源氏物語』がいつ書き始められて、いつ書き終えられたか、正確なところはわかりません。それだけではなく、『源氏物語』が現存する巻の順番で書き進められたのか(帚木三帖(帚木巻・空蝉巻・夕顔巻)や玉鬘に関わる巻々は後で加えられたとする説もあります。今で言うアナザーストーリーでしょうか。逆に帚木三帖は初期の巻々であるとする見方もあります)、書かれた当時の巻々がすべて伝えられているのか(かつて「輝く日の宮」という巻があったという伝承があり、そこには光源氏と藤壺の最初の逢瀬や六条御息所との馴れ初めなどが書かれていたとする見解もあります。そこから着想を得た、丸谷才一の小説『輝く日の宮』も有名です)、などわからないことのほうが多いのです。そもそもすべて紫式部一人が書いたかどうかも、疑問を挟む学説もあります(竹河巻別作者説などです)。 執筆開始時期について、『紫式部日記』の回想の記述などから、現在最も賛同者が多い見解は、夫宣孝に先立たれた後、実家で書き始めたというものです。書き始められた初期の巻々は、物語好きの友人たちの間、すなわち現代で言う文芸サークルのような場で評判になったようです。それが時の最高権力者藤原道長の注目するところになり、娘彰子の許へ仕えるよう求められたという流れが想定されています。 道長には、評判の『源氏物語』を娘の許で創作させることで、娘のサロンの名声を高め、さらに後宮文化の理解者であり、文学好きの一条天皇の関心を呼ぶという計算もあったことでしょう。紫式部は鳴り物入りで招聘され、その三年後には、これも『紫式部日記』に拠れば、『源氏物語』は道長・彰子のバックアップの許で大掛かりな豪華本が制作され、一条天皇から「この作者は日本書紀の講義ができるほどの学才の持ち主だね」という評価を勝ち取ることになります。日本書紀の講義を話題にしたのは、九世紀初頭から十世紀半ばにかけて、宮中で行われた「日本紀講筵」という日本書紀の大掛かりな、学者によるレクチャー(講義や研究会)を意識していたからのようです。 当時紙は貴重品であり、『源氏物語』が長大な物語として多くの読者を獲得するためには、彰子の許への出仕は不可欠だったことでしょう。『源氏物語』の執筆が紫式部の自己実現に繫がったことも見逃すことはできません。 このように考えてくると、夫宣孝に先立たれるという不幸がなければ、『源氏物語』がこの世に生まれなかった可能性も否定できないのではないでしょうか。禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し。もちろん、これほどに文才に恵まれていた人ですので、宣孝の妻として、別の形で物語に筆を染めて、評判をとったかもしれませんが。 因みに宣孝が亡くなった頃に紫式部が詠んだ歌が『紫式部集』に残されています。 見し人の煙となりし夕(ゆうべ)より名もむつましき塩釜の浦 (あの慣れ親しんだ人が荼毘に伏され煙となった夕べから、その名も親しみを感じることになった塩釜の浦であることよ) 塩釜の浦とは、現在、宮城県塩釜市松島湾内にある塩釜湾のことで、塩を焼く煙の景色で有名な歌枕の地でした。その様子を描いた絵を見ながら、夫宣孝を偲んだ歌と考えられています。 興味深いことに、『源氏物語』の夕顔巻で、光源氏が急死した夕顔を偲んで、次のような歌を詠んでいます。 見し人の煙を雲とながむれば夕の空もむつましきかな この時代、葬場で遺骸を焼いて荼毘に伏した煙が空に昇って雲になると考えられていました。和歌の発想は、夫を偲んだ歌と同じで、紫式部が自分の和歌を転用させていたことがうかがえます。夕顔とは短期間の交際でしたが、光源氏が心の底から愛し夢中になった女性でした。宣孝への思いが物語の中に封じ込められているのかもしれません。 『源氏物語』には、宮仕え以後に石山寺に籠って書き始められたとする有名な伝承もありますが、これについては別の機会に触れることといたしましょう。 ■参考文献 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸