【昭和の大相撲】大乃国に火をつけた「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てない」の一言…昭和63年九州場所プレーバック
2025年は令和7年だが、昭和(1926―1989年)で数えると100年になる。"昭和100年"の節目を記念して、昭和の大相撲名勝負を振り返る。 * * * 昭和63年の千秋楽、昭和最後の一番。双葉山の69連勝更新の期待が高まっていた横綱・千代の富士を、横綱・大乃国(現・芝田山親方)がこん身の寄り倒しで打ち破った。取組前夜の放駒親方(元大関・魁傑)からのひと言が、大乃国の闘志に火をつけていた。 その瞬間、悲鳴と歓声が福岡国際センターを突き破ろうとしていた。大乃国が制した横綱対決に、異例の座布団も舞った。絶対的な強さを誇った千代の富士の敗北に、驚きの空気が充満した。 この場所7日目、千代の富士は当時史上2位だった大鵬の45連勝をあっさり抜き去り、14日目に53連勝で4場所連続26度目の優勝を決めるなど敵なしだった。 対照的に大乃国は、62年秋場所後に横綱に昇進したものの、63年春にV決定戦を制した以外は、睡眠時無呼吸症候群などに苦しみ、直前の63年秋は8勝7敗止まり。昇進後、一度も千代の富士に勝ったことがなく、今回も千秋楽で倒すのは難しいとみられていた。 14日目の取組後、夕食時に師匠・放駒親方が「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだから、せめてヒヤッとさせる場面はつくってこいよ」と大乃国にチクリと言った。 「一瞬、箸が止まりましたよ。席を立とうかと思いましたが、それは大人げないので我慢しました。そのくらいの気持ちになった」と元大乃国の芝田山親方は複雑な心境だった当時を回想した。 「明日は何とかしなきゃならん」―。闘志に火がついた。翌朝、いつもより1時間半も早く稽古場に下り、若い衆と立ち合いを繰り返した。「いつも相手のタイミングで立っていた。相手に対して圧力をかけなければいけない」と入念に準備し、結びの一番を迎えた。 腰を割って、重心を落とした立ち合いで、左上手を素早く引いた。だが、千代の富士に左でまわしを取られ、右も差され、もろ差しとなった。それでも、なりふり構わず前に出た。両脇を抱えながらの土俵際、無我夢中で左のど輪。千代の富士はたまらず、砕け落ちた。「体が自然と反応した。感想? よし、勝ったというだけですよ」。悔しげな表情の相手を抱き起こした。 今、振り返れば「師匠のあの言い方がよかったんだと思っていますよ。弟子の性格を知った上で言ってくれた。いつも厳しかったけど、自分がその立場になって、つくづく分かった」と芝田山親方はかみしめた。千秋楽後の打ち上げの席で、放駒親方の「よかった、よかった」と言った時の笑顔が今も忘れられない。(久浦 真一) ◆大乃国 康(おおのくに・やすし)本名・青木康。昭和37年10月9日、北海道・芽室町出身。62歳。花籠部屋から53年春場所、初土俵。58年春場所、新入幕、60年秋場所で新大関、62年秋場所後に第62代横綱に昇進。平成3年名古屋場所を最後に引退。通算成績は560勝319敗107休。幕内優勝2回。得意は右四つ、寄り、つり。現役時代は189センチ、211キロ。
報知新聞社