岸谷五朗「主演映画『月はどっちに出ている』が転機に。演劇から入った僕にとって役作りの時間が特に大事。舞台は、僕の俳優人生と並行して一緒に歩いてくれるもの」
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第35回は俳優の岸谷五朗さん。2024年の大河ドラマ『光る君へ』で、主人公・まひろ/紫式部の父・藤原為時役で注目を集めています。岸谷さんは、少期に劇団四季の舞台を観て「僕はあっち側へ立とう」と演劇に興味を持ったそう。大学入学後、三宅裕司さん主宰の劇団スーパー・エキセントリック・シアターの入団オーデションに合格、そこから俳優人生が始まって――。(撮影:岡本隆史) 【写真】1994年の『地球ゴージャス会報誌』より寺脇康文さんと岸谷さん * * * * * * * ◆映画、ドラマの面白さ 岸谷さんはこの作品(『月はどっちに出ている』)で93年の映画賞をほとんど総なめにする。毎日映画コンクール、キネマ旬報賞、ブルーリボン賞、日本アカデミー賞の新人俳優賞など。 ――三宅さんの劇団に入った頃は、新宿の「シアターモリエール」とか「タイニイアリス」という150人くらいのキャパの小劇場だったのが、10年して辞める頃には1200人入る青山劇場で主演をやれるようになって、その間には自分の芝居も作り始めていました。 三宅さんにはそこまで演劇に没頭させてもらったわけです。そんな時に、崔監督から映画への特別なインヴィテーションをもらって、映画撮影ってこんなに面白いんだ、舞台だけやってたらもったいないなって思った。 そして映画界から招かれたあとに、今度はフジテレビの大多亮(とおる)さんから、連続ドラマ『この愛に生きて』(94年)のインヴィテーションがあって。安田成美さんがヒロインで、僕はその相手役。 テレビドラマって、自分が生きていくのと同時進行のようにドラマがオンエアされていく、その面白さがありますね。
その後、NHKの連続ドラマ『八日目の蝉』からのオファーが来る。小豆島ロケで何日か一緒だったという吉行和子さんによると、「撮影のない日、彼は一人で島を歩いていて、集まった時に片方が赤、もう片方はグリーンの靴が脱いであって、面白い人だと思った」とのこと。 ――すごいなぁ、そんなこと覚えてらっしゃる。さすがだなぁ。僕の母は吉行さん大好きですよ。 僕のあの役は、原作にはなかったんです。テレビドラマにする時に、主人公を何かと助けるうちにだんだん恋仲になっていく島の漁師という役を作ったんですね。 そういう役を演じる時は特に内面の役作りが大事です。演劇はある意味、表面で表現する。舞台に立つ上でのテクニック――手足の動かし方とか、肉体というものを重視します。 でも映像は、その奥にある精神とか心とかが出来上がらないと、カメラの前に立てないんですよね。演劇から入った僕にとって役作りの時間が特に大事なんです。 それで撮影隊の来る十日くらい前に小豆島に入って、漁師さんの着ている服をもらって、船に乗っていたんです。たまにオフの時だけ気持ちを切り替えるために、持って行った色違いの二足の靴を履いてずっと小豆島を探索してました。 やっぱり映像は外側から撮られていても、内面を撮られてる、と感じますね。だから演劇でも映画でも、俳優に絶対必要なものは存在感だと思う。特に演劇の場合は、物凄い登場感がないと成立しません。地味に出て来て、「あ、あの人出て来たの」じゃダメなんです。 でも映画には《ただそこに居る》存在感が必要で、たとえば居酒屋で大勢と飲んでいても、脚本に描かれていることが読み取れていて、役作りができていれば、強い存在感を放つわけなんです。 俳優はその役のきっかけを探してる。漁師の役でも、友達に醤油工場の奴がいるかもしれない、とか、爪をあんまり切らない奴かも、とか、きっかけが掴めるとその役に近づけて、それが自信になるんですね。
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