「万人は死刑囚のために」袴田巖さんに永山則夫・元死刑囚が獄中から送っていた「直筆年賀状の中身」
「絶対に大丈夫」
袴田巖さん(88)の無罪が確定したのは、10月9日。逮捕から58年の歳月を経て、ようやく日常が戻ってきた。あれから1ヵ月あまり――袴田さんはどんな生活を送っているのだろうか。 【実物入手!】袴田巖さんに永山則夫・元死刑囚が獄中から送った「奇妙な直筆年賀状」 「午前中に起床し、午後から支援者の車でドライブに出かけたりしています。判決前と変わらない日々を過ごしていますよ。ただ、出先で『袴田さん、おめでとう。よかったですね』などと声をかけられても『あ、どうも』と他人事のように返事をするだけ。あまり嬉しそうには見えません。支援者や市民の喜びようとは裏腹に、袴田さんは無罪確定にあまり関心がないように見えます」(袴田さんの支援者) この反応に、事件の悲惨さが滲んでいる。無実でありながら実に48年間も獄中に閉じ込められ、独房での暮らしを強いられた袴田さんは、誰とも話さない日々を強いられていたのだ。日々、死刑の恐怖に怯えながら……。 そんな獄中にあって、袴田さんには収容者とのささやかな交流があった。そのうちの一人が、獄中ノートを基にした『無知の涙』がベストセラーになった永山則夫・元死刑囚だ。1968年、袴田さんが死刑判決に控訴して東京拘置所に移監されたころ、永山元死刑囚は東京や京都、函館、名古屋で、ピストルによる連続射殺事件を起こして4人の命を奪った。その後、逮捕された永山元死刑囚は、袴田さんと同じ東京拘置所に収監されるのだった。当時、東京拘置所に収容されていたAさんが明かす。 「永山は運動の時間の行き帰りに、『袴田さん、絶対に大丈夫。頑張って』と声をかけていました。袴田さんは『ありがとう』と返していました。当時、永山は東京拘置所の新舎にいて、袴田さんの独房はそこから距離の近い新北舎の3階にあった。新北舎には後にオウム真理教の麻原彰晃や、秋葉原通り魔事件の加藤智大が一時期収監されていたことがあります」 ◆「自分と一緒に革命者になろう」 永山元死刑囚は毎年、獄中の袴田さんに年賀状を送っていた。’14年に袴田さんが釈放された後、東京拘置所から浜松市の自宅に送られてきた段ボールの中にその実物があった。それぞれ1983年、1986年、1988年の年賀状である。年賀状には短い文章が添えられているが、いずれも文章が難解で意味を理解することは難しい。永山元死刑囚に詳しい社会学者が解説する。 「『自分と一緒に革命者になろう』と誘いをかけているように読めますね。“自分は罪を犯してしまったが、犯罪者だからこそ見出せる社会の真実がある。共に闘おう”というニュアンスでしょうか」 袴田さんにとって獄中での数少ない交流相手だった永山元死刑囚は1990年に死刑が確定し、1997年に東京拘置所で処刑された。永山元死刑囚と同じフロアにいた元被告によると、房から処刑場に連行される際、本人は激しく抵抗したという。 人生の大半を社会から隔離されてきた袴田さんが、残りの時間を穏やかに暮らしていくことを願いたい。 取材・文・写真:青柳雄介
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