八名信夫が東日本大震災以降に被災地で感じたこと「自分にできることは何か…。たどりついた結論は、映画を作ること」
東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)に投手として入団。ケガが原因で選手生活を断念し、映画俳優として活躍を始めた八名信夫。1983年には悪役商会を結成し、以降、CMやバラエティ番組でも活躍。被災地支援も行っている彼のTHE CHANGEとは――。【第2回/全2回】 ■【画像】書籍『悪役は口に苦し』 当時の東映で、高倉健さん以上に存在感があったのが鶴田浩二さん。雲の上のスターだった。その鶴田さんのお声がかりで、京都で撮影する任侠映画(『いかさま博奕』68年)に出たんだ。すごく嬉しかったんだけど、そこで事件が起きた。 あるシーンの立ち回りで、俺のドスが若山(富三郎)さんの眼鏡に触れ、ほんの少し額に傷ができたんだよ。しかも監督が「血が出てますよ」なんて言うもんだから、若山さんが逆上しちゃってさ。俺に殴りかかってきた。間に入ったのが鶴田さんだった。 「何さらしとるんじゃい。八名は俺が東京から連れて来た舎弟じゃ。それに手を出すんか!」 鶴田派と若山派、それぞれ20人ほどがにらみ合い、一触即発。映画どころじゃない。最終的には若山さんが鶴田さんにわびを入れ、撮影は再開されたんだけどな。俺も一度は東映退社を覚悟した。それにしても、若山さんにタンカを切った鶴田さんは映画以上に迫力があったな。 いろんな監督の下で仕事したけど、忘れられないのは内田吐夢監督。名作『飢餓海峡』( 65年)に、俺も端役で出させてもらったんだ。俺は場末の飲食街を仕切るチンピラ役。左幸子さん演じるヒロインの店でスゴむだけの短い場面なんだけど、朝から何回テストしても、ダメ。とうとう本番に入れないまま昼食になった。内田監督はどこが悪いかを言わないし、俺は半ばヤケクソになって、食堂でビールをあおった。そしてスタジオに入ると、いきなり監督から「本番行くぞ~」の声。これには驚いた。しかも、その本番も一発でOKだった。監督に言われたよ。 「朝はサラリーマンみたいで、ヤクザの匂いがしなかった。でも、ビールを飲んで入って来たときはヤクザの兄貴分の顔そのものだった」 つまり、内田監督は食堂にいたときも、ずっと俺の表情や動きを観察してたんだ。すごいよな。 後年、監督のお墓にお参りする機会があったんだけど、墓石の隣には「命 一コマ」と刻まれていた。監督も役者もフィルム一コマに命を賭ける。それが映画なんだよ。