八名信夫が東日本大震災以降に被災地で感じたこと「自分にできることは何か…。たどりついた結論は、映画を作ること」
「津波に流されたおばあちゃんと妹を見つけてほしい」
深作欣二監督も妥協しない人だった。何度でもやり直しをする。『仁義なき戦い 広島死闘篇』(73年)で、俺が北大路欣也ちゃんに頭から豚汁をぶっかける場面があった。遠慮気味にかけたら、深作監督に「全然ダメだ!」と怒られた。欣也ちゃんには申し訳なかったけど、2度目は湯気の立つ豚汁をガバッとぶっかけたよ。スタッフがすぐにバケツの水をかけて、やけどしないように手当てしたけどな。映画っていうのは、そうやって命懸けで作るものなんだ。 その後も俺の悪役人生は続いた。転機は83年に、悪役だけで何かできることはないかと思って、悪役商会を作ったことだろうな。 栄養ドリンクや湿布薬のCMに出る一方で、ボランティア活動にも力を入れ、老人ホームや障害のある子供たちの施設に慰問に行った。 東日本大震災以降は被災地にも繰り返し足を運んだ。あるとき、空き地でサッカーをしている少年たちに何か欲しくはないか聞いたんだ。全員しばらく黙っていたけど、一人の男の子が口を開いた。 「津波に流されたおばあちゃんと妹を見つけてほしい」 欲しいのはモノじゃないんだ。俺は東京に戻って、自分にできることが何かを考え続けた。たどりついた結論は映画を作ること。被災地の人たちが家族を思い、一生懸命生きていることを映画にして全国の人に伝えることだった。こうして私費で製作したのが『おやじの釜めしと編みかけのセーター』(2017年)。これを全国で無料上映し、DVDの売り上げは被災地支援に当てた。 熊本地震のときも、みんなを元気づけるために映画(『駄菓子屋小春』18年)を作って支援した。今度は出演者もスタッフも全員現地の人たち。 えっ、3本目はあるのかって? 次は自宅を売らないといけないからな(笑)。でも、映画っていいよ。俺は映画の力を信じているよ。 八名信夫(やな・のぶお) 1935年8月19日、岡山県岡山市生まれ。明治大学を経て、東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)に投手として入団。ケガが原因で選手生活を断念し、映画俳優として活躍する。1983年にギャングや悪党を得意とする俳優の集団、悪役商会を結成。以降、CMやバラエティ番組でも活躍。被災地支援も行っている。 THE CHANGE編集部
THE CHANGE編集部