「帰りたい」「帰れない」――原発事故で全町民の避難が続く双葉町 帰還への期待と苦悩 #知り続ける
その後、猪苗代町のホテル、郡山市の仮設住宅を経て、2016年9月に友人の紹介で南相馬市の一軒家を購入した。海が近く、趣味の釣りができることが決め手だった。 「生活に不満はなかったよ。釣りもできたし。でもなじめずに居心地はよくなかった」 キッチンカーで浪江焼きそばを売っている友人の手伝いを月に4回ほどして気を紛らわせた。双葉に戻れる機会がやってくれば、真っ先に移ろうと考えていた。
大きく変わってしまった町
町の姿は事故後の11年で一変した。汚染土などを保管する巨大な中間貯蔵施設が立ち、一昨年に開館した原子力災害伝承館も存在感を見せる。 一方、住宅のあった場所は更地が目立つようになった。役場はいわき市の仮庁舎に移転したままで、交番も閉鎖されている。生活に欠かせないスーパーや病院もなく、食材を買うには車で隣町まで行かないといけない。しかし、そんな環境も細沢さんはお構いなしだ。 「50年も住んだところだからな。この先長くもないし。あとは故郷で自由に生きていきたいんだよ」
家族4人での準備宿泊
茨城県古河市の自営業・大沼勇治さん(45)も準備宿泊に申し込んだひとりだ。4歳から育った双葉町。かつて町の中心部に掲げられていた看板の「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語は、大沼さんが小学校6年生の時に考案したものだ。とても誇らしく、ずっとここで過ごそうと考えていた。
大沼さんの自宅は双葉駅から約100メートルの場所にあり、復興拠点に認定されている。 「今日が再スタートの一歩」と語った1月29日、妻と震災後に生まれた10歳と8歳の息子と一緒に故郷を訪れた。 自身の過去の思い出を交えながら町を説明する大沼さん。復興拠点と帰還困難区域の境では、「同じ町の中でも住めるところと住めないところがあるんだよ」と立ち入りを制限するゲートに閉ざされた前方の街を指さしながら、息子たちに優しく語りかけた。
その後自宅に戻り、ウッドデッキのペンキ塗りなどをして過ごした。原発事故がなければ4人で楽しく暮らしたはずの家。息子2人にとって、人生初の双葉町での宿泊となった。 「夜はカルタをしよう!」と無邪気な長男。大沼さんは「息子たちが今の双葉の状況とか、双葉でこんなことをしたっていう記憶を頭の中に残してくれればいいと思っています」と話した。 1泊2日の充実した週末。大沼さんは一家で双葉町に戻ることは考えていない。2人の子どもにとっては避難先の古河市が故郷。市内の小学校にも通っている。仲の良い友達と別れさせて、200キロ近く離れた双葉町に引っ越すことはできない。ときどき、週末に遊びに来るぐらいにするつもりだ。 「子どもが巣立つまでは引っ越しはしないと決めています。双葉へはいつか帰りたいとは思っていますが……」大沼さんは少し寂しそうに語った。