ロックスター、志磨遼平の孤高に至る物語。自叙伝『ぼくだけはブルー』で何を描いたのか
言語化というより「編集」。歌詞制作との違いは?
―今回のような執筆と、歌詞を書くというのは、やっぱり全然違う動きなのでしょうか。 志磨:そうですね。歌詞には必ず伴奏が付きますので、ことばに頼らずとも伝わる部分が多いというか。すでにムードっちゅうもんがありますので、音楽には。 日常でもあるじゃないですか。すでにムードができあがっていて、あとは一言添えるだけ、というような。気まずいムードが流れたあとに「ちょっと話いいかな」みたいな。もうそれだけで、あ、これ絶対怒られるやんっていう感じとか(笑)。あるいは、ロマンチックなムードが流れたあとの愛の告白であるとか。そういう、ムードに付け足すだけのことばが歌詞なので。 だから、文章はまだ全然わからないですね。どういうふうに書けばいいのか。歌詞ほど自由自在にはまだ操れない、というところです。一旦書き上げたものを読み返すたびにほころびが見つかって、それをちまちま直してるうちに、また別の箇所が気になって、いつまでたっても終わらないという感じでした。 ―自分のいろんなところを言葉にする、つまり、かたちに表してしまうのは怖いと、個人的には思っていて。その思いからの質問ですが、自分の人生を言語化する苦しみもあったのではないかと思っていて。志磨さんにとって、それはどういう作業でしたか。 志磨:いえ、苦しみはさほどなくて。僕にとっては、人生の言語化というより人生の編集なんですね。 僕の人生から不要な部分を取り除き――不要というのは、嫌な思い出ということではなく。嫌な思い出を隠すということではなくて、よりドラマティックに! ですね。ロックを志した者の人生として、あるべきエピソードだけ残す。 つまり、最低なエピソードと最高のエピソードだけを残し、普通のエピソードを削っていく。僕は普通じゃないって思いたいわけですから。そうやって編集していくと、自分の人生がたいそう面白いものに見えてくる。 これは何て言うのかな、まったくつらい作業ではなく、むしろとても面白い、うん。何だか自分がすごい人に思えてきたぞっていうことなので。なので、とても楽しく、書き上げたという。とんでもない、とんでもないことですけど(笑)。