麿赤兒「中学で演劇部を設立し一年から部長に。純粋に演劇に惹かれたというよりは、似た境遇の仲間と擬似家族のようにするのが楽しくて」
中学生の麿さんが演じた戯曲はチェーホフの『熊』とか、木下順二の『夕鶴』とか。『夕鶴』は当時の学校演劇でかなり流行った人気演目。 ――『熊』では酔っ払いの親父の役。鼻を真っ赤にしてね。『夕鶴』では与ひょう。やはり木下順二の『彦市ばなし』の彦市とかもやりましたよ。高校に進んでも相変わらず演劇部で虚構の世界に。ほとんどこれ、逃避ですよね。 その後、早稲田大学第一文学部の哲学科に進むんですが、先輩にのちのSCOTの演出家・鈴木忠志がいて、あの人は背が高くて二枚目だし、同期には今の松本白鸚さん――当時の颯爽たる市川染五郎さんがいたりして、少々のコンプレックスを持ちましたよ(笑)。 歌舞伎研究家の郡司正勝さんの講義に2、3回出席したけど、女方の真似をなさるのがなまめかしくて面白かったですよ。その後いろいろあって中退しました。 ですから第1の転機は、中学時代に演劇の道に引き寄せられたことでしょうね。純粋に演劇というものに惹かれたというより、似たような境遇の仲間と擬似家族みたいにしていたのが楽しかったわけですけど。
大学に行かなくなった麿さんの行き先は、女優の山本安英が主宰する「ぶどうの会」に研究生として。演劇部時代の『夕鶴』上演に連なる縁か。 ――そうですね。中学の時に自分たちで演劇をやってから、大阪で山本安英さんの『夕鶴』を観たんです。山本さんの幽霊っぽいような、霞んでるような立ち姿に惹かれましてね。母親的な幻想を見たような……。 「ぶどうの会」に入ると山本さんの講義があって、僕はいつもできるだけくっつくぐらいすぐそばに座るものだから、気味悪がられてました。(笑) その「ぶどうの会」は、入って半年で解散・分裂しちゃったんで、僕は若手の劇作家や演出家の宮本研さん、竹内敏晴さんが結成した劇団「変身」というのについていったんです。 そこでどんな風の吹き回しか、モリエールの『ドン・ジュアン』の主役に抜擢されたの。黒いタイツをはかされたり、女優とキスの場面があったりで、もう恥ずかしくてね、田舎の青年でしたから。 ところが、初日の前の晩、淀橋警察署から「任意でいいから出頭せよ」という通知が来たので素直に署に行ったら、そのまま収監されてしまった。何ということもない、一年前に新宿の路上で仲間と一緒に喧嘩した、ということだった。 まぁ、じきに釈放になるんですが、それでも大事な初日に穴をあけたということで厳しい総括に遭いましてね。それで劇団に何となく嫌気がさして、新宿の風月堂という、そうした連中がゴロゴロしている喫茶店で一日中過ごすようになりました。 (撮影=岡本隆史)
麿赤兒,関容子
【関連記事】
- <後編>麿赤兒「劇作家・唐十郎との出会いは衝撃的だった。浅草のロック座の前座で一緒だったビートたけしに〈あれが前衛だってよ〉と言われ」
- 松本幸四郎「『伊賀越道中双六・沼津』開幕1時間前に大役・十兵衛を任されて。無観客で再び十兵衛を演じた際には、父と特別な時間を過ごせた」
- 現代演劇の女方・篠井英介「5歳で観た美空ひばりさんの時代劇映画をきっかけに踊りを習い始めて。その頃から、男より女の踊りのほうが好きだった」
- 歌舞伎役者の初代中村萬壽が語る、三代襲名への思い「時蔵の名を汚さぬようつとめた43年。萬壽の名は平安時代の元号から。孫の初舞台と一緒に譲ることを思い立って」
- 長塚京三「ちょっと毛色の変わった学部にと、衝動的に選んだ早稲田大演劇科。どこか遠くに行きたいとパリ留学へ。そこで映画出演の話が舞いこんで」