「1日にりんご1つ分変わっているものって、何だと思いますか?」誰にも相手にされない健康医学教室を15年がかりで全国に広げた医師の「執念の理由」
「次におまえも死ぬぞ」と言われたかのような、突然の父の死。後悔だけが残った
山下先生の抗加齢の実践は1995年、阪神淡路大震災に端を発します。 「鹿児島大学を卒業、鹿児島市の市立病院で働いている最中に震災が起きました。10日間の予定で神戸に医療支援に入ったのですが、7日目に妻から父が倒れたと連絡が入りました。父は母を帯同して博多に出張中でした。妻の話の断片から心筋梗塞でもう間に合わないことは把握できましたが、知らない土地で一人で過ごす母を案じて、恐縮ですが支援は切り上げさせていただき、タクシーで通れる道を探しながら広島まで移動しました。これ以上はもう行けませんと言われ、そこからは開通した新幹線で博多まで戻りました」 つねづね奥様には「自分は開業には向かない、このまま一生勤務医を続ける」と口にしていた山下先生ですが、この体験を経て「医師としての軸が通った」と振り返ります。 「父が60代という若さで、そしてあまりにも急に世を去ったものですから、あとから少しずつ『もっとできたことはなかったか』と考えるようになりました。私は循環器が専門ですので、もっと父に教えられることがあったのではないか、教育があれば違ったかもしれないと後悔をするようになって。それまでの私はどちらかといえば受動的に、依頼をされて患者さんを診察する立場でしたが、この手遅れの大後悔と言うべき感情を脳内で反芻し続けるうち、医師として何をすべきかという使命のようなものに徐々に気づき始めました」 やがて鹿児島県枕崎市の市立病院で院長職に就いた山下先生は、改めて「これだけ医学が発達しているのに依然として病人が減らない」事実に直面します。どうすればいいのか悩みながら手探りで日々の診察を続ける中、2004年に東京で開催された学会に参加、「抗加齢」の概念に触れて「これだ」とひらめいたそうです。 「その学会、抗加齢医学会では、栄養・ストレスマネジメント・運動・加齢機序・サプリメント、さまざまな分野の専門家が発表を行い、医学だけではない総合力で健康を達成しようと考えていました。中でも、80代のお年寄りに成長ホルモン補充を行った発表が衝撃的でした。なんと、皮膚も垂れさがったヨボヨボのお年寄りが、マッチョに変わった。心の底から驚きました。それまで加齢は一方的に進むと信じて疑っていませんでしたが、『若返り』ができるとは」 さっそく抗加齢分野の勉強を始めると、その鍵は案外シンプル、毎日の生活習慣にあることがわかりました。何歳からでも体は作り替えられる、この素晴らしい事実をぜひみんなに教えたい。 「大切なのは、食事、運動、ストレスコントロール。そして、ひずみを立て直すのがホルモン補充。これこそ私が追い求めていた、病人を減らすための魔法でした。そして、こうしたことがらの『学習』が必要だと感じました。なぜなら、一人ひとりが日々の健康を実践するには、なぜそれを行うのか、その理由を知っておかないと行動が起きないから。思えば、私の父に対する心残りも、こうした教育の不足でした。伝えられなかったから、喪ったのだという後悔です」 2004年、山下先生はこれらの実践のため、鹿児島市にクリニックを開業します。つみのり内科クリニックに隣接する建物は、1Fに健康食レストラン、2Fにフィットネスジム、3Fに健康医学教室を備えています。しかし、理想の実現のため健康医学教室をスタートしたものの、初手から暗雲が立ち込めます。 ここまでの記事では山下先生が抗加齢の実践に取り掛かるまでのお話を伺いました。つづく後編記事では実際にスタートしてからの紆余曲折を伺います。
オトナサローネ編集部 井一美穂