スポーツカーレースを根底から変えたシュツットガルトの「黒船」PORSCHE 956|国内モータースポーツの隆盛 第16回
【国内モータースポーツの隆盛 第16回】 メーカーに技術開発の大義名分を与えたグループC規定の狙い 1970年代初頭に始まった排出ガス規制のため、国内の自動車メーカーはモータースポーツの表舞台から撤退。10年以上の活動休止が続き、日本のモータースポーツは世界水準から大きく取り残されることになった。技術開発のけん引役となる自動車メーカーが不在なのだから、歳月を重ねるに従い差が開くのは当然のことだった。 【画像20枚】ワンツーフォーメーションで1983年のWEC富士戦をリードするロスマンズポルシェ956の2台。ワークス956の強さは圧倒的だった 82年、この年から施行されたグループC規定によるWEC(世界耐久選手権)シリーズのカレンダーに、富士スピードウェイでのC戦が組み込まれた。このレースは、以後、80年代を通じて「富士WEC」として定着するが、それまでF2/GCとプライベーター主導のレースしか存在しなかった日本レース界の体力では、同年のWECに即応することは無理だった。 と言っても、グループC規定適用初年度のWECレギュラー参戦組、ヨーロッパ勢も追従できていたわけではなかった。むしろ、旧規定(グループ6)に代わる新規定という意味で、ハードウェア側で対応できたのはポルシェ1社に過ぎず、それ以外は暫定的に認められた旧グループ6カーの改造仕様で臨む状態だった。 グループC規定には、それまでのレース史になかった大きな革新要素があった。車両の仕様を制限するのではなく、レース中の使用燃料量を一律とした点だ。これは実に合理的な考え方で、エンジンはいかに大排気量、高出力でも構わないが、使える燃料量はこれだけと制限する方法で、必然的にスピード差がなくなり、拮抗した内容のレースが期待できる規定だった。 実際、グループC規定は92年まで使われたが(91~92年はNA3.5L規定に移行)、この間に登場したトップクラスの車両仕様を見ると、2.1の4気筒ターボから7LのV12NAまで、メーカー/コンストラクターによって性能に対するアプローチ思想は千差万別だった。 ちなみに、当時の技術的な潮流について触れておくと、70年代後半からターボ化の動きが加速し、グループC規定が発足した82年の時点では、F1がNA3Lから1.5Lターボへと、一気にその様相を変えようとしていた時期だった。 こうした時代に登場した本格的なグループCカーの第1号車がポルシェ956だった。エンジンは、すでに定評のあったグループ5カー935、グループ6カー936の流れをくむ、ヘッド水冷/ブロック空冷の935/82型2.65L水平対向6気筒を採用。 すでに市販車の領域では、電子制御燃料噴射方式のボッシュLジェトロニックを採用していたポルシェだが、956では実績と信頼性を優先したことで、クーゲールフィッシャー製のメカニカル方式が選ばれていた。 シャシーは、ポルシェの伝統だった軽合金チューブによるスペースフレーム方式から、アルミパネルを用いたモノコック方式に変更。すでにカーボンモノコックも存在する時代だったが、当時のカーボンシャシーは一体成形方式にまでいたらず、パネルを張り合わせて接着する方式で、あえてポルシェは、十分な製造ノウハウと信頼性のあるアルミモノコック構造を選択した。 また、ポルシェは早い段階からFIAの要請に応じて、新グループC規定の策定に必要なベースデータを提供して協力するという事実があった。 グループ6規定下(正確には一部変更されていたが)の前年、81年のル・マンに臨んだ936が、グループ6規定の排気量上限NA3Lを上回る2.65Lターボエンジンを搭載していたのは、FIA側にポルシェが使うであろう新エンジンの燃費性能を知ることで、それをグループC規定の参考データとしたいという思惑があったからだ。 余談だが、現代のWEC、ハイブリッド規定を決定するための基礎データを提供したのはトヨタだった。 新規定の策定/実施が、最先端技術を持つエントラントメーカーの協力なくして不可能なことは、こうした例がみごとに物語っている。 956を目標にしたCカー活動 背中も見えない遠い存在だった ポルシェの開発拠点であるバイザッハでテストを繰り返した956は、この年のWEC第2戦、5月のシルバーストン6時間でデビュー。ちょっとした、しかし前代未聞の見込み違いにより優勝はランチアLC1に譲ったが、第4戦のル・マンでは3台の956がゼッケンどおりに1~3フィニッシュを飾る快挙を演じてのけた。 ル・マンで他を寄せ付けぬスピードと信頼性の高さを示した956は、その後参戦したWEC戦すべてで勝利。日本初上陸となる10月の富士WECにも、唯一この年のライバルと成り得たグループ6のランチアLC1と共に2台の956「ロスマンズ・ポルシェ」で登場。未体験のスピードゾーンを披露したが、度胆を抜くというより、まるでひとつの芸術作品のように、その美しいボディフォルムで日本のファンを魅了した。 振り返れば、レーシングポルシェの日本上陸は、いつの時代も完成されたフォルムでファンの目を釘付けにしていた。64年第2回日本グランプリの904、66年第3回日本グランプリの906、68年第5回日本グランプリの910、69年日本グランプリの917と908スパイダーなど。 これらはすべて、それぞれの時代をリードする第一級のレーシングスポーツだったが、フォルムの美しさもポルシェの大きな特長となっていた。 82年のWEC富士は、ジャッキー・イクス/ヨッヘン・マス組の956 1号車が、2番手ランチアLC1に2ラップの差をつけて快走。956強しの印象を鮮明に焼き付けた。 そして翌83年、956は市販仕様が作られプライベートユーザーに販売された。これもポルシェの伝統で、よほどのことがない限り、ワークス活動のために作られた車両は、翌年カスタマース仕様として市販された。 グループC規定施行初年の82年、旧グループ6カーの改造仕様などで急場をしのいでいたプライベートチームの多くが956を購入。ポルシェの使い手として知られるヨースト、クレマーなども名前を連ねていた。 一方、グループC規定に将来的な可能性を見いだしていた日本のモーターレーシング界は、早くも翌83年にグループC規定によるJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー選手権)を立ち上げた。82年のWEC同様、とにかく間口を広く構えて参戦車両を募り、開催を重ねることでシリーズとしての定着を意図したものだった。 この動きに呼応したのが、日産宣伝3課を取りまとめの窓口とする日産系の有力ユーザーと、やはりプライベーターながらメーカーに代わってトヨタ車による活動を積極展開していたトムスとそのパートナーの童夢だった。 日産勢は実績あるマーチエンジニアリング社製、国産のLM製シャシーにシルエットフォーミュラから続くLZ20B型ターボを組み合わせる手法、トムスはWRCセリカ(TA64)と共通のパワーユニットとなる4T・G型ターボに童夢製作の83Cシャシーを組み合わせる手法で、それぞれグループCカーを企画した。 メーカー内製によるグループCカーではなかったが、間接的にメーカーの支援を受けるかたちで本格的なレース活動が始まった。 一方、メーカー色のからまないプライベーター勢は、彼らが手に出来る最強のアイテム「ポルシェ956」の導入に踏み切っていた。まっ先に手を挙げたのはトラスト。83年の開幕戦から藤田直廣/バーン・シュパンのコンビで参戦。JAPC全5戦で国産Cカー勢を一蹴。スピード、耐久性、信頼性とあらゆる面でひと回りもふた回りも国産勢を上回っていた。 実際のところ、当時の国産Cカー勢を客観的に振り返ると、車両のベースポテンシャルがポルシェ956に遠く及ばないどころか、熟成度、完成度も低く、完走もおぼつかない状態で到底ライバル視出来る関係ではなかった。 トラスト956が、別の意味で注目を集めたのは、同年の富士WECだった。国内勢として圧倒的な存在であることは誰もが認めるところで、むしろ、WECに遠征してくる有力プライベートポルシェ勢、さらにはワークスポルシェとの力関係がどの程度なのか、この1点に関心は集まっていた。 果たして、遠征組のプライベートポルシェに相次いでマイナートラブルが発生したことも手伝っていたが、トラストはワークス2台に次ぐ3位表彰台を獲得。地元日本、富士という有利な面もあったが、少なくともサポート体制を含めた総合戦闘力で、トラストは名だたるポルシェカスタマーに先着する実力を示したわけである。 しかし、見方を変えるとこの3位入賞は、手放しで喜べるものでもなかった。1周4.3kmの富士を225周、967.5kmで争われたこのレースを制したロスマンズ2号車とは実に6周の大差がついていた。 国内最強、それも圧倒的な強さのトラストをもってして6周差。そのトラストにまったく歯の立たない国産勢の実状を振り返ると、日本勢が世界の頂点に追いつくのはいったいいつの日になるのか、絶望的な距離感を思い知らされるレースでもあった。 日本勢にとって、82年の富士WECはグループCカーを目の当たりにした初の機会、そして83年のWECは曲がりなりにも態勢を整え、世界の頂点と初めて手合わせしたレースとして、自分たちの置かれた位置を自覚する、言い換えればグループC活動のスタートラインに立つレースとして、大きな意味があった。 それにしても、またもや日本のモーターレーシング界に大きなインパクトを与えたポルシェと956は、まさに師と呼ぶべき存在と見えてくる。 ポルシェの伝説「J・イクス」 31年ぶりに956で富士を走る ポルシェ956の存在を世に知らしめ、956マイスターとして君臨したドライバーがジャッキー・イクスだ。 イクスといえば、ル・マン通算6勝のレコードホルダーとして世界に名を馳せたが(その後トム・クリステンセンが9勝したことは有名だが)、実は956によるル・マン制覇は1度だけ。他は936で3度(76、77、81年)、ガルフミラージュ(75年)、フォードGT40(69年)の内訳だ。 とくに1勝目となる69年は「レースは24時間もある」と達観し、全ドライバーが血眼になってクルマに駆け寄るル・マン式スタートの中で、1人悠然と歩いてGT40に乗り込み、結果的に先頭でゴールラインを横切ったエピソードはよく知られている。 そのイクスが、2台のレーシングポルシェと共に富士スピードウェイに現れた。しかも、イクス自らステアリングを握ってのデモラン、という演出だった。 2台は、いずれもポルシェAG所有の車両で、1台は77年仕様のグループ6カー936、もう1台は83年型の956が持ち込まれた。 マルティニカラーの936は、77年ル・マン優勝のカーナンバー④をつけた936/77仕様として仕上げられていたが、シリアルナンバーは936-002で、この個体自体は76年のル・マン優勝車、ジャッキー・イクス/ガイス・ファン・レンネップ組の⑳号車そのものとなる。 この個体、77年は(外観は77年仕様車だが)ル・マンの1戦のみ(③号車=リタイア)、78年もル・マンの1戦のみ(⑦号車=3位)の使用となり、合計8レースで1位5回、3位2回、リタイア1回という華々しい戦績を残す来歴の車両である。 もう1台の956は83年製造の956-005で、83年シーズンに9戦、84年シーズンに1戦だけ使われた車両だ。83年はゼッケン①をつけイクス/マス組のエース車両として2勝(ニュルブルクリンク、スパ)を記録。十分立派な戦績だが、イクス/マス組ならばもう少し勝ち星が多くても……、と欲張った気にさせられる。 なお、956はワークス用が00番台、カスタマー用が100番台のシリアルナンバーで区別され、ワークス用として9台(001~010、006は欠番)が作られている。 ちなみに、956の発展型となる962C(962はIMSA仕様)は、956のセンターモノコックを延長してペダルボックスをホイールベース内側に収める構造で、安全規定の改定に従うモデルだった。両者はハンドリングやシャシー特性に若干の差異はあるものの、基本的には同系列と見なせる車両同士だ。 時間軸をさかのぼること35年から40年。改めて、もうそんなに昔のことなのかと思わせるが、車両を目の前にすると、古さが感じられない。この時代、すでに近代レーシングカーの基盤が確立されていたためだろう。激動、激変した60年代のレーシングカーとは明らかに異なる時代背景だ。 それにしても、かつてはル・マンやマニュファクチャラーズ選手権で勝ち星を積み重ねた車両が、主人公のイクスと共に、時間の流れを超えて現代の富士スピードウェイに現れるのは、なにかとても不思議、奇異な印象を受けてしまう。とくに956-005は、83年の富士WECでイクス/デレック・ベル組が走らせ2位となった車両だ。 まったく非現実的であり得ない話だが、考古学の発掘のように細かく富士スピードウェイを探索していけば、34年前にこの車両が残した痕跡が見つかるのではないか、そんな思いがわき上がる光景だった。 83年当時、富士スピードウェイのピットはコンクリートブロック、木製の角柱、スレートの屋根で作られた粗末なものだった。しかし、富士に限らず鈴鹿も似たような設備環境で、とくに貧相だという印象はなかった。今風の「ピットガレージ」が普及し始めるのは90年代に入ってからのことだ。 その殺風景なピットと最先端の自動車テクノロジーを凝縮したグループCカー956の対比は、今見れば相当な違和感になるはずだ。逆に、現代のピットに置かれた956は、その機能美が違和感なくマッチしていた。こうした思いで、くつろぎながら出番を待つイクスを見ていると、人間に対してだけ時の流れは正直だった、と思い知らされてしまう。 ツーリングカーからF2を経て、F1に上がった頃のイクスは、ベルギーの天才少年レーサー、と言われる注目株だった。フェラーリ、ブラバムと移籍したチームに必ず白星をもたらすラッキーボーイぶりを発揮。71年、ジャッキー・スチュワートのF1タイトル獲得に真正面から挑み、徹底抗戦したのもイクスだった。 そのイクス、60~70年代のスポーツカーレースはフォード、フェラーリに属し、ポルシェにとって最もやっかいなドライバーとして君臨。908で念願の初優勝を期した69年のル・マンで、ポルシェの夢を打ち砕いたのもイクスだった。その最強のドライバーが、F1を退きスポーツカーレースに専念する際、パートナーとして選んだ相手がポルシェだった。 勝つために計画的、合理的にプロジェクトを展開し、理に適えば大胆かつ実直に行動するポルシェの姿勢に信頼が置けたのだろう。936、935、956によるスポーツカーレース活動に加え、959によるパリ~ダカールラリーでの活躍と、イクスがポルシェに残した功績はあまりに大きかった。 そんなイクスが、数あるレーシングポルシェの中でも深いかかわりを持つ2台と富士で再会。何気ないようでいて、歴史の栄光と重みを再確認する味わい深い光景だった。 初出:ハチマルヒーロー 2017年9月号 Vol.43 (記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
Nosweb 編集部
【関連記事】
- 圧倒的な速さを持つポルシェ956が賞レースを総なめ。日本ではグループC規定のグランプリが開催され、956に対抗しようと動き出した|国内モータースポーツの隆盛 第16回【2】
- 国内最強であったプライベーター「トラスト956」が富士WECで世界に挑む!その結果、世界の頂点の実力を目の当たりにした|国内モータースポーツの隆盛 第16回【3】
- ニスモ創設のきっかけは、1982年10月2日のWEC富士6時間レースの参戦のポルシェ956。日本のモータースポーツ界に衝撃を与えた1台|日産グループCジェネレーション Vol.1
- 日本グランプリの歴史の中でポルシェを追いかけ続けた日産【1】スカイラインGTの成功を阻止しようと現れたポルシェ904。その存在がプリンスのレージングカー造りを進化させた
- GT-R伝説の始まり。ツーリングカー王座奪還へ向けて開発されたハコスカ、そのレーシングモデル|1969年式 日産 スカイライン 2000 GT-R 1969 JAFグランプリ優勝車(篠原孝道号)仕様【1】