瀕死の名門・ペスカドーラ町田を再生させた新社長・関野淳太が目指すアリーナスポーツの頂|Fリーグクラブ特集
瀕死状態。 関野淳太社長は就任当時、会社の状況をそう表現した。大袈裟ではなく「このままではこのクラブは潰れてしまう」と覚悟したという。 ペスカドーラ町田存続の危機、それが始まったのは、2021年11月のことだった。 「残念ながら来季はペスカドーラをスポンサードできない」という連絡がフロントに届き始める。コロナ禍の煽りを受けて2021-2022シーズン限りで撤退する企業がいくつかあったのだが、その中に当時のメインスポンサーと、それに次ぐスポンサーも含まれていた。 事態を重く見た町田のフロントはすぐに手を打つ。 2021年12月、「広告収入において2000万円以上の収益減少が見込まれる」とし、クラウドファンディングを行なうと、2022年1月31日までに目標の500万円を大きく上回る812万円の支援金が集まった。 しかしながら、実際の収益減少額は2000万円よりはるかに大きく、2022-2023シーズンの予算は前年から“半減”というのが実状だった。そんな財政難に追い討ちをかけるように、当時の山本敏彦社長が大病を患い退任を余儀なくされる。 2022年4月、クラブは瀕死状態だった。そんななか、関野氏は社長に就任した。 ところがどうだろう。 1年半後の現在、町田は完全に息を吹き返している。 ユニフォームの胸には新しいメインスポンサーのロゴが入り、観客動員数もリーグトップと好調で、なにしろ名古屋オーシャンズと首位争いを演じているのである。 いったいなにがあったのか。そして、この勢いで町田はどこを目指すのか。瀕死の名門を再生させた新社長・関野氏に聞いた。 インタビュー=本田好伸、大西浩太郎 編集=高田宗太郎 インタビューは8月25日に実施しました
関野淳太とは何者なのか?
──Fリーグ創設に伴い「ペスカドーラ町田」というクラブが誕生した2007年当時、自分がそのクラブの社長になるというイメージはありましたか? 関野 ないです、ないです、100%なかったです。 ──当時の関野さんの肩書きは通訳でしたよね? 関野 そうですね。当時クラブにはポルトガル語をしゃべれる人が僕しかいなかったので、初代監督のバイアーノの身の回りの世話と通訳、それからスクールコーチという形でスタートしました。その当時スクール生で在籍していたのが、小学生だった山中翔斗や中村心之佑たちです。それまでもそれからも現場のことをメインにずっとやってきたので、2022年に社長を任されるようになるとは……驚きですよね? ──いえいえ。たしかに最近まで「現場の人」というメージではありました。現監督であり、クラブの会長でもある甲斐修侍さんとは、エスポルチ藤沢で一緒にプレーした後、それぞれカスカヴェウ(ペスカドーラ町田の前身)とロンドリーナ(湘南ベルマーレの母体)を立ち上げて、切磋琢磨する間柄でした。 関野 お互いプレーヤーやプレーイングマネージャーとして、良きライバルだったと思います。ペスカドーラ町田で一緒にやるようになってからも現場のほうが長いですから。僕は通訳兼コーチを経て、2011-2012シーズンから監督を4シーズンやって、2015年にフロント入りしたという感じですね。 ──その時のフロント業への転身はスムーズでしたか? 関野 お陰様でスムーズだったんです(笑)。今思うと本当にありがたい話なのですが、僕が監督をしていた時に山本前社長が営業先に連れ回してくれたんです。「うちの監督ですよ」って各所に。そこで先方は「監督がわざわざ来てくれたんだ」という感じになり、顔も覚えてもらって。それがあったので、監督の4シーズンが終わり「いざフロントで営業だ」となった時にとてもやりやすかったです。 ──営業を担当されていたんですか? 関野 最初はホームタウン担当兼営業みたいな感じで、山本と2人でスポンサーを集める仕事でした。2020年に事業部長になってからは社長業補佐という業務を行なってきました。 ──当時、クラブとしては「プロ化」を強く意識していましたよね。 関野 そうですね。山本も甲斐も「プロ化」を常にキーワードに出していて、それをどう達成していくかに向けて動いていました。ただ、それどころではなくなってしまった。 ──コロナ禍ですね。 関野 2022-2023シーズンにメインスポンサーとそれに次ぐスポンサーがコロナ禍の影響で離れてしまって、収益の半分近くを失いました。年収半減って、スポーツクラブに限らず一般企業だとしても相当苦しいはずですよ。 ──一般家庭だとしても、ゾッとします。 関野 ですよね。そんな状況下で「社長をやってくれ」って言われたらどうです? ──コロナ禍の影響で年収半減……。プロ化どころではないですね。 関野 たぶんコロナ禍ではない時期に社長に就任していたら、今の考え方はしていなかった。今まで山本や甲斐が積み重ねてきたものに沿ってプロ化を進めていたでしょうね。でも、僕がクラブを引き継いだ時、クラブは存続の危機、言うなれば「瀕死状態」でした。