「今日はあっても明日はない」 ノーベル平和賞受賞の陰に広島県被団協副理事長の覚悟
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は12月10日、ノーベル平和賞の授与式に臨む。受賞に至るまでの道のりには、被団協だけでなく市民の努力の積み重ねがあった。AERA 2024年12月16日号より。 【絵画】「大けがを負った女性に声をかけられても譲ることができなかった大切なもの」はこちら * * * 広島市の平和記念公園で11月22日、日本被団協の地方組織である広島県被団協など広島県内の被爆者7団体が、署名活動を行った。政府に対して核兵器禁止条約への参加を求め、道行く人に署名を募った。署名活動は2カ月に一度、核兵器禁止条約が発効した2021年から継続してきたが、今回はノーベル賞の受賞が決まって初めての活動で、多くの報道陣が詰めかけた。広島県被団協の理事長であり、日本被団協の代表委員の箕牧智之(みまきとしゆき)さんも入院先から駆けつけて、受賞の思いを語った。 「(受賞決定は)長い活動の歴史が世界から認められた瞬間だった」 ノーベル平和賞受賞の陰には、被団協だけでなく市民の努力の積み重ねがあった。自身も被爆し、21年から広島県被団協の副理事長を務める原田浩さん(85)もその一人だ。 ■気づいたらがれきの下 原田さんは当時6歳だった。疎開するために、広島駅のホームで午前7時半発の列車を一家で待っていた。列車は遅れていた。自宅に忘れたおもちゃも気になる。立ち疲れて、父の膝にもたれた。 その瞬間、上からホームの屋根が降ってきた。8時15分、原爆が投下された瞬間だった。爆心地から1.9キロ。気づいたら、がれきの下に埋まっていた。父がとっさに覆いかぶさってくれていたおかげで、原田さんは奇跡的にほぼ無傷だった。がれきをはって出ると、竜巻のような炎が上がっていた。 背中にケガを負った父と逃げた。生死不明のたくさんの人を踏んで逃げるしかなかった。倒れた人は皮膚が溶けていたので、柔らかい内臓に足がめり込んだ。 「その桃をこの子に譲って」 逃げる途中、大けがを負った女性に声をかけられた。小さな子どもを連れていた。原田さんは手に桃を握っていた。当時、桃なんて見たこともなかった。果物はほとんどなかった時代だ。格別な甘いにおいがしただろう。疎開する原田さんをふびんに思った父が手に入れてくれたのか。その桃を求められたが、どうしても譲ることはできなかった。そのときの記憶は後年、広島市の基町高校の生徒が絵に描いて残している。