「今日はあっても明日はない」 ノーベル平和賞受賞の陰に広島県被団協副理事長の覚悟
■53歳で資料館の館長に 戦後は広島市の職員になった原田さん。あまりの悲惨さに、被爆体験を語ることはなかったが、1993年、53歳で、広島平和記念資料館の館長に抜てきされた。 これまでの館長はシャツを脱ぐと、体にケロイドがあった。 「でも、私は無傷でした。だから、被爆の体験談を私がするもんじゃないと思っていました」 だが、気持ちに変化が生じる。きっかけは、館長になって4日後、米国立航空宇宙博物館の館長による広島訪問だった。ワシントンでの展示のために被爆資料を貸してほしいという。警戒した。広島の悲惨な体験を理解したいのであれば、原爆の日の8月6日に広島に来るように伝えた。 再び広島を訪れた館長を見て、「この人に期待してもいいんじゃないか」と思った。被爆で亡くなった13歳の折免滋くんが持っていた「黒焦げの弁当箱」などの貸し出しを求められ、検討をしていた。だが、米国内で反対の声があり、結局展示は実現しなかった。 原爆は多くの人の命を救ったと考える人たちがいたからだ。 「核兵器の悲惨さを伝えなければ、核兵器廃絶は実現しない」 原田さんの平和行政に関わる覚悟が固まった。その後、広島市側の窓口として、被爆者団体と向き合った。その一つが被団協だ。 日本被団協とは1956年に結成された被爆者の全国組織。原水爆の禁止を掲げ、世界で核兵器廃絶を訴えてきた。 国費で健康診断をする「原爆医療法」(57年)や健康管理手当などを支給する「原爆特別措置法」(68年)を実現させた。その後、厚生省(当時)の前で泊まり込みで5日間の座り込み、被爆者調査、国会への働きかけなどを経て、95年には二つの法律を一本化した現行の被爆者援護法が施行された。運動を重ねてきた成果だ。 「被団協の求めに応じて、外務省の高官を広島に呼んだこともあった。国と被団協の間に立ち、調整の努力をしてきた」 ■今日はあっても明日は 同じころ、市民は原爆ドームの世界遺産登録を目指していた。「当時窓口だった文化庁は全く動かなかった。それなら我々行政と住民が動こうと」。署名活動は全国に広がり、165万人の署名を添え国会に請願した。 「今日はあっても明日はない」 原田さんはそんな気持ちを抱いて、平和への活動を続けてきたという。(編集部・井上有紀子) ※AERA 2024年12月16日号より抜粋
井上有紀子