復興への遠い道のり 6年目を迎える福島県浜通りのいま
2011年3月11日。東日本大震災が起きてから、まもなく満五年を迎える。 地震と津波、そして原子力発電所の大事故。私たちが、初めて経験した大きな災害だった。あれほどの衝撃を受け、また人的にも大きな喪失をもたらした災害。しかしいつしか私たちの暮らしは以前と同じになり、いつしかその記憶も曖昧になりつつありはしないか。 【図】福島第一原発事故から5年 避難指示区域の指定の状況は?
福島県の浜通りは、復興の最前線のひとつだ。一昨年秋に、国道6号線が全線開通し、以来主に除染などの工事車両が多数通行している。また、宮城以北へ抜けるにも、ここを通った方が近いこともあり、渋滞していることも多いようだ。いまでも空間放射線量がかなり高いところもあるのだが、それよりも利便性ということだろうか。
東京にいるときに感じる復興ムードとは裏腹に、目の前に広がる現実は、かなり厳しいといわざるを得ない。 一年ほど前にも同じ地域を見ているが、状況としてはそれほど変わっていない印象だ。それどころか、放射性廃棄物の山は以前とは比較にならないほどに大きくなり、またどこに行ってもそれが目につかないところがないほどだ。そこでは巨大なクレーンがいくつも稼働し、大型ダンプカーがひっきりなしに出入りする。実に気の遠くなるような光景だ。
浜通りから西へ、山の中へと入っていくと、一時間ほどで飯舘村に着く。飯舘牛が特産で、福島市からも浜通からもアクセスのよい、風光明媚な村だったが、福島第一原発の事故により、全村が「計画的避難区域」に指定され、いまでも村民は避難生活を強いられている。 時々、家の様子を見に来たり、墓参りに帰ったりするだけの暮らし。村の中を見て歩いても、目につくのは山積みになった放射性廃棄物と、除染関係者たち、そしてこの村を通過する多くの車両だけだ。国はここに人を帰そうと考えて、除染も急ピッチでやっているのだと思うが、それがいつになるのかは、誰にもわからないのではないか。
それでも人の暮らしていない家々や町は、明らかに朽ち始めているのが感じられた。いつかここに人が暮らせるようになっても、どれだけの人が戻るのだろうか。何よりも問題は、いまでも終息のめどが立たない原発事故だろう。 この問題を解決できない状態では、真の復興にはほど遠いと感じた。そして、もう福島のことを忘れている人たちには、一度でいいから訪れてほしいと思う。これは、日本人全員に突きつけられた問題なのだから。 まる5年を迎えた被災地の現状を3回にわたってレポートする。 (写真/文:村田信一)