「家の名前に泥を塗れない」小5で意識した、刃物の聖地を継ぐ未来 老舗メーカーに息づく「野鍛冶」の精神
◆小学生高学年で芽生えた「後継者の自覚」
――36歳という若さで事業を承継していますが、経緯を教えてください。 1989年に祖父が亡くなり、父が社長に就任しました。 当時、幼稚園児だった私は、岐阜県関市から千葉県に引っ越しました。 小学生低学年の頃は後継者という意識は持っておらず、自由に過ごしていたと思います。 それが、2つ上の姉が中学生になるタイミングで岐阜県に戻ることになり、小学校5年生からは再び関市での生活が始まりました。 「後継者」というのを意識したのはその頃かもしれません。 関市は“刃物のまち”で、貝印は地元の大企業です。 「貝印の長男」という周りの目は、どうしても意識してしまいます。 プレッシャーというわけではありませんが、どこかで「家の名前に泥を塗るわけにはいかない」と感じていました。 父から明確に「会社を継げ」と言われたことは一度もなかったのですが、小学6年生から中学生になる頃には、「将来は自分が会社を継ぐんだ」という自覚が芽生えていたと思います。 ――会社を継ぐことに対する抵抗感はなかったのですか? 中学生になると、夏休みに倉庫でアルバイトをしたり、工場を見学したりと、会社に出入りする機会が増えていきました。 自然と会社への愛着が湧き、「老舗メーカーの創業家に生まれた」という境遇を、「これはチャンスだ! 生かさない手はない」と捉えるようになっていったんです。 当時の貝印は海外展開を進めており、父は毎週のように海外出張をしていました。 世界をまたにかけ、グローバルに活躍している姿を見て、「いつか自分も!」という思いが強かったですね。
◆新卒での貝印入社が「ベストだった」その理由とは
――中学生時代に「後継者」を志し、その後はどのように歩んだのですか? 東京の高校に進学した頃には、父も私に会社を継ぐ意思があるというのを感じ取っていたようです。 高校1年生の夏休みに、父のアメリカ出張に同行することになり、オレゴン州にある現地法人の幹部宅に数日間ホームステイしました。 当時2~3歳の息子さんがいたのですが、家族旅行に同行して、一緒にサンドバギーに乗った記憶があります。 日本では味わえない、異文化の中での体験と交流は当時の私にとって大きな刺激になりました。 さまざまな経験の中で、後継者への思いは一層強くなっていったと思います。 もしかしたら、父の手のひらの上で転がされていたのかもしれませんが(笑)。 この間、オレゴン州の工場に行った際には、その息子さんが働いていたんです。 親子2代にわたって、貝印で働いてくれているのが本当に嬉しかったです。 ――慶應義塾大学を卒業後、すぐに貝印に入社されています。他の会社を経験するなどの選択肢はなかったのですか? もちろん、他社で修業という選択肢も考えていました。 しかし、最終的に貝印の中で経験を積んでいくのがベストだと決断しました。 振り返ってみても、新卒で貝印に入社してよかったと思っています。 社会人1年目という一番下の立場から、現場のリアルな声を耳にすることができ、同期社員の話を聞くこともできました。 もしも他社での修業を経て、それなりの立場で入社していたら、社員からまた違う目で見られていたのではないでしょうか。 新卒から貝印で働いているということが、社員の心理的なハードルを下げ、親しみを持って迎えてもらえていると思っています。
■プロフィール
貝印株式会社 代表取締役社長 兼 最高執行責任者(COO) 遠藤 浩彰氏 1985年6月、岐阜県関市で貝印株式会社の創業家の長男として生まれる。2008年に慶應義塾大学経済学部を卒業後、同社に入社。生産部門のカイインダストリーズ株式会社や海外関連会社kai U.S.A. ltd. への出向を経て、2014年に帰任する。国内営業本部、経営管理本部の副本部長を経て、経営戦略本部、マーケティング本部、研究開発本部の3部門で本部長を歴任。2018年に副社長に就任し、2021年5月より現職。
取材・文/庄子洋行