<パリ五輪男子バレー>”歴代最強日本”のエース・石川祐希。恩師が明かした「これほどの選手をどう育てればいいのか」という重圧と、今も残る後悔
星城高で2年連続の三冠、高校で「六冠」という前代未聞の実績を引っ提げ、石川祐希が中央大の門を叩いたのは2014年。同年には日本代表登録選手に選出され、アジア大会に出場。さらには現役大学生でありながら、イタリアセリエAのモデナに渡り、3、4年時にはラティーナでプレーするなど、新たな道を切り拓いた。卒業後はプロ選手としてイタリアへ渡り、2021年からは日本代表の主将も務め、強い日本代表を象徴するキャプテンシーを発揮しているが、学生時代にもその片鱗はあったのか。中大時代に監督として指導した松永理生氏が語った。 【写真】石川祐希、髙橋藍、関田誠大を指導した松永理生監督
高校時代のプレーに「なんとしても欲しい選手」
――石川選手を初めて見た時、知った時はどんな印象でしたか? 松永(以下同)最初は僕がまだ現役時代、豊田合成トレフェルサ(現ウルフドッグス名古屋)で星城高が練習をしたことがありました。その時に祐希を見て、「バレーボールの技術やセンスは抜群だな」と。当時はまだ身体が細くてひょろひょろしていましたが、最初に見た時から「いい選手だな」と思いました。 その後、星城高で活躍する姿を中大の監督として見て、OBを含めた関係者も「なんとしても欲しい選手だ」と一致したので、僕はどうすれば祐希が中大に入りたいと思ってくれるか、大きなプレッシャーを背負っていたんです(笑)。 僕にできるのは彼の将来を含め、「こうやっていきたい」と熱い思いを伝えることぐらいしかなかったのですが、別の大学も選択肢にあったなか、「中大に行きます」と言ってくれた時は嬉しかったですね。思わず握手したのをよく覚えています。 ――2学年上には関田(誠大)選手もいました。素晴らしいセッターがいる、というのも後につながる大きな要素だったのでは? まずは身体づくりを考えてトレーニングもしっかりできる環境を、というのが一番でしたが、僕としてはやはり「誠大と一緒に頑張ってほしい」という思いはありました。高校生の時はそこまで考えていなかったかもしれませんが、大学からつながる今の関係を見ると、「よかった」と心から思います。
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