英雄か否か? 賛否両論巻き起こるシャロン氏の功績
イスラエルのアリエル・シャロン元首相が11日、テルアビブの病院で死去しました。85歳のシャロン氏は8年前に脳卒中が原因で昏睡状態となり、以後は病院での闘病生活が続いていました。1週間前にはシャロン氏の容態悪化に関するニュースが世界中で伝えられましたが、それから間もなくしての他界でした。
イスラエルという国の歴史そのものだったシャロン氏の人生
シャロン氏の人生はイスラエルの歴史そのものと言っても過言ではありません。1928年にテルアビブ近郊(当時は英委任統治領パレスチナ)でベラルーシ出身のユダヤ人夫婦のもとに誕生したシャロン氏は、14歳の時にガドナ(イスラエル建国前に作られた少年向け軍事訓練)に参加。その後イスラエル国防軍の前身となる地下軍事組織ハガナに入隊します。 1948年5月に勃発した第1次中東戦争では、ハガナの一因としてパレスチナ人に対するゲリラ活動を展開。まだ20歳の若者でした。イスラエル建国後の1956年に勃発した第2次中東戦争では部隊長としてシナイ半島のミトラ峠攻略に成功。上官命令を破る形で峠の攻略に動いたシャロン氏には非難の声が相次ぎましたが、軍内部で順調に昇進を繰り返し、1967年の第3次中東戦争では少将としてイスラエル最強の機甲師団を指揮。イスラエルが僅か6日間で圧勝する原動力となりました。 軍を離れ保守政党のリクード党で政治家として活動を始めていた1973年には第4次中東戦争では、予備役として緊急招集されましたが、指揮官としてシナイ半島を急襲してきたエジプト軍を撃破。「英雄」としての地位を確固たるものにしました。 1981年8月に国防大臣に就任。1982年のイスラエル軍によるレバノン侵攻では約2万人が死亡し、その多くが民間人であったため、世界各国で「虐殺者」として批判を受けました。リクード党の党首だった2000年にはエルサレムにある聖地「神殿の丘」を訪問。ここはユダヤ教だけではなく、イスラム教の聖地でもあったことから、訪問はイスラエルとパレスチナの間で大規模な衝突が繰り返される原因となりました。ヨルダン川西岸や東エルサレムで入植政策を推し進めていたのもシャロン氏でしたが、2005年に入植地からの撤退を訴えてリクード党を離党。新政党結党から間もなくして昏睡状態に陥ったのです。