「俺の死に場所はここだ」――覚悟を決めた真珠湾攻撃 103歳の元搭乗員の証言
戦争に突き進んだ背景
日本は1937年からの日中戦争で、資源を求めてフランス領インドシナ(仏印)へも歩を進めていた。アメリカはこうした日本に対して、経済的な圧力を段階的にかけ、1941年8月に石油を全面禁輸とした。日本はアメリカに石油の供給や中国・蒋介石への援護を停止することを求めたが、11月27日、すべての要求をアメリカは否定した(ハル・ノート)。 同盟国との関係もあった。日本はドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を結んでいた。欧州での進撃が著しいドイツがイギリス、欧州を制せば、日本もアメリカ、イギリスとの関係性で優位を保てる。仮にアメリカと一戦を交えるにしても、半年ほど戦況を維持すればやる気をなくすだろう──。そんな楽観的な見通しをもっていた。 日本は12月1日の御前会議で最終的に開戦を決定した。
発射直後に気づいた間違い
日本時間12月8日午前1時半(現地時間7日午前6時半)ころ、ハワイ諸島・オアフ島から北に約370キロの地点で、吉岡さんらの第一小隊は飛び立った。記録によれば、第一次攻撃隊183機、第二次攻撃隊167機、合計350機765人が奇襲に参加したという。吉岡さんは第一次攻撃隊の雷撃機に搭乗した。真珠湾の中に位置するフォード島の東側に戦艦、西側に空母があり、吉岡さんは西側の空母を狙うよう指示されていた。 真珠湾に接近すると、後部座席の吉岡さんは魚雷の深度計を5メートルにセットした。現場はすでに先発隊の攻撃で黒い煙がもくもくと上がっており、よく見えない。ただ、1番機と横並びになる形で進んでいった。
「近寄っていくと、艦船のマストが見えた。あれ、『これは(攻撃する必要のない)ユタではないか?』と思った。だが、その瞬間(1番機からの手信号の合図で)『よーい、てッ!』と指示が出た。そこで(雷撃の投下スイッチを)引っ張り、投下しました。その直後に艦の横を飛行してみると、その艦には砲塔はあるけど、砲身がなかった。やっぱり、これはユタだ……と気づきました。でも、時すでに遅し。艦橋より高い水柱が2本、ゆっくりと立ち上がった。マストが左側に傾いていくのを見て、『あぁ、当たったな』と思いました」