「俺の死に場所はここだ」――覚悟を決めた真珠湾攻撃 103歳の元搭乗員の証言
4月22日、横須賀に戻ると、吉岡さんは蒼龍から下船した。この時の下船が命拾いとなった。蒼龍は6月5日からのミッドウェー海戦に参加、沈むことになったからだ。ミッドウェーでは、蒼龍を含む空母4隻が沈没。艦載機約290機を失い、戦死者は3千人以上。日本が敗戦に向かう分岐点となった。 吉岡さんのその後の任務も悩ましい成果だった。1943年1月にはラバウルへ向かおうとトラック島まで行くも、島にあった二十数機の爆撃機は米軍の空襲ですべて失われ、日本に戻ることに。1944年は千葉・木更津から「燃料補給の飛び石状態の飛行で」パラオのペリリュー島まで爆撃機一機を届けたが、自身はセブ島経由で戻った。 もはや日本軍の劣勢は明らかだったと振り返る。理由の一つはアメリカの航空機をはじめとする戦力の急激な上昇だった。 「零戦がわかりやすいですが、真珠湾までは日本の戦闘機が操縦性など世界で最もすぐれていると言われていました。しかし、半年したらアメリカはF6Fなど、もっと性能がいいのを作り出してきた。爆撃機ではB-25を出して、早くも東京に爆撃をした(1942年4月のドーリットル爆撃)。これらの動きを見たとき、自分でももう勝つのは無理だろうと思いました」
日本劣勢のもう一つの理由が兵力の圧倒的な不足だ。戦線が厳しくなり、前線で命を落とす兵士が増えていく。航空隊では技術のある操縦士が少なくなり、訓練も十分でない若い兵士が出ていくことになった。 「各地の現場を回っていくと、訓練を積んだ人がほとんどいなくなっていた。だから、技量も未熟な若い兵士が飛んでいく。それで敵に落とされてしまうわけです。おまけに向こうの飛行機は性能もよくなっているのに、こちらはエンジンの故障など補修が必要な機体ばかり。10機あっても6機は損傷して動かせない。そんななか残った4機で出るとしたら、どうするか。それで、だったら爆弾もって敵艦に突っ込めという特攻の発想になった。本当にひどい話です」