「俺の死に場所はここだ」――覚悟を決めた真珠湾攻撃 103歳の元搭乗員の証言
続く4機もそれにならってユタを攻撃した。見渡してみると、湾の東側は煙の中に特型駆逐艦や水上機母艦、駆逐艦が倒れているのが見えた。さらに、潜水艦の存在も確認できた。 「雲の間から見ると、真珠湾の北側に潜水艦が30隻以上あるように見えました。しかし、戦艦と航空母艦をやることしか命令がないので、何もしなかったんです。あのあと、日本はアメリカの潜水艦にたくさん苦しめられました。それを思うと、ユタ以上に後悔があります。2発くらい(爆弾を)落としておけば少しでも助かった人がいたんじゃないかと思うんです」 出撃している間、怖いといった感覚、死ぬかもしれないという恐れはまったくなかったと吉岡さんは言う。ただただ戦艦か母艦に魚雷を当てることだけに集中していた。蒼龍に帰艦してみると、自身の機体は無事だったが、1番機は3発被弾していた。
戻ってからは忙しかったことしか覚えていない。出撃の行動調書を書いたり、他の乗組員に詳細を伝えたり。第一次攻撃は現地時間の午前7時55分に開始、第二次攻撃は8時49分に開始し、9時45分に終了。そうしたなかで自分の搭乗機がどういう動きをしたか、相手はどのような状況だったかを報告していった。 その後、蒼龍はウェーク島での戦いに参加したのち、12月29日に日本に戻った。
未熟な訓練と兵士の減少
真珠湾攻撃のあとも作戦は続いた。大分の宇佐海軍航空隊で飛行機を整備し、別府で2日ほど休んだあと、吉岡さんは再び蒼龍に乗り込んでいくつもの前線に出ていった。1942年1月にはパラオ諸島のペリリュー島、2月にはオーストラリアのダーウィン、3月から4月にはスリランカのセイロン沖海戦に参戦。この時期は各地で日本が攻勢だった。 「ダーウィンの軍港爆撃では事前に日本が来るのを察知したのか、艦船はみんないなくなっていました。それで港湾施設を爆撃した。セイロン島ではトリンコマリーという英領の軍港の海軍工廠を爆撃しました。ただ、この頃、蒼龍で2機落とされたほか、飛龍でも艦上攻撃機をいくつか落とされた。私自身、セイロン島では爆弾を落としたあと、イギリスの戦闘機に機銃で3発か4発撃たれて、左の燃料タンクを飛ばされた。幸運にも落ちませんでしたが、危ないところでした」