「俺の死に場所はここだ」――覚悟を決めた真珠湾攻撃 103歳の元搭乗員の証言
1941年12月8日は日本の運命を大きく変えた日だ。アメリカに戦争を仕掛けた真珠湾攻撃。この奇襲に、魚雷を積んだ雷撃機で参加した103歳の男性が東京にいる。あれからちょうど80年、「俺の死に場所はここだ」と覚悟を決めて臨んだ戦いを振り返ってもらった。(ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
話してこなかった真珠湾
東京都区部の集合住宅。近隣には保育園や公園もあり、夕方になると子どもの声も聞こえてくる。指定された場所に着くと、高齢の男性がこっちこっちと手を振っていた。吉岡政光さん、103歳だ。 「もう年ですから、なかなか足が思うように動かないんですよね」 照れたように笑い、ゆっくりと部屋に戻る。リビングの一角には九七式艦上攻撃機の模型が飾ってあった。
毎年12月8日が来ると、吉岡さんは古い記憶を思い出す。80年前の1941年、日本海軍が行ったアメリカ・ハワイ州の真珠湾軍港への奇襲攻撃。吉岡さんは攻撃に参加した艦載機(航空母艦に搭載される航空機)の搭乗員だった。長年、自分の子どもたちにもそのことは話してこなかった。 「負けた戦争ですし、仲間も死んでいますし、恥ずかしい思いがあったんですかね。でも、考えてみたら、あの時のことを忘れられても困る。それで話すことにしたんです」
1918(大正7)年、石川県に生まれ育った吉岡さんは18歳で横須賀海軍航空隊に入隊。1939年9月に卒業し、大分海軍航空隊の訓練に参加していたところ、高知・宿毛湾に停泊中の航空母艦・蒼龍の乗組員になる指示が出た。船に乗るとすぐに南シナ海へと向かった。同年11月、日中戦争の南寧攻略作戦が吉岡さんの初の実戦だった。 南寧では艦上爆撃機に乗ることになった。吉岡さんの役割は操縦ではなく、偵察と爆撃。後部座席に座り、地図をもとに目的地までの進路を決定したり、飛行時間を計ったりしながら、爆撃する任務だった。 「南寧での実戦を経て日本に戻ってからは、摂津という名の標的用の古い戦艦を対象に爆撃訓練をよくしていました。5キロの演習爆弾は、当たると煙を出すんです。それでどこに落ちたかを確かめる。『ちょい右、ちょい左、ヨーソロー(まっすぐそのままの意)、ヨーソロー……、よーい、てッ!(撃ての意)』という調子でね。1941年夏からは艦上攻撃機に乗って、(鹿児島の)出水基地に近い浅瀬で雷撃の訓練をしていました。浅海面襲撃訓練という名で、空中から発射する魚雷で艦船を倒す訓練。実際にどこを攻撃するのかは、聞いていませんでした」 そんな訓練を積みながら、1941年11月18日、大分・佐伯湾に停泊していた蒼龍は吉岡さんら隊員に行き先を言わずに出航した。