元川崎ブラジル人FWのアイドル 23歳で生涯に幕…美的表現力にあふれた“伝説のドリブラー”【コラム】
テクニックを駆使して相手守備陣を翻弄するドリブルはジュニーニョ
当時、デネルは彼が亡くなった2か月後の6月に開催される、W杯アメリカ大会のブラジル代表のメンバー入りを目指していた。ただ、当時のセレソンの状況は、70年メキシコ大会を最後に24年間もの長きにわたって優勝から遠ざかっており、世界チャンピオンの称号が渇望されていた。そのため監督のカルロス・アルベルト・パレイラは、いまでは一般的になっているがボランチを2人採用して守備的に戦う、内容より結果を重視するサッカーでアメリカ大会に臨んでいる。 そして、ブラジルはアメリカの地で頂点に立ち、W杯の歴史の空白をカナリア色に染め上げる。見事に結果を出したとはいえ、カルロス・アルベルト・パレイラ監督のもとでは、デネルのように一芸に秀でた選手がメンバーに選出されるのは、難しかったかもしれない。 それでも、セレソンの指導スタッフとは対極的に、デネルが活躍した90年代のブラジルでは、国民はまだサッカーに芸術性を求める思いが強かった。そして、デネルは人々が思い描く、限りなくブラジル的な選手だった。そのプレーでただひたすらサポーターを魅了する、サッカーの美的表現力にあふれた選手だった。 デネルを憧れの存在としていたジュニーニョのプレーの武器は、日本のサッカーファンなら知っているように、テクニックを駆使して相手守備陣を翻弄するドリブルであった。体格もデネルと似ており、ジュニーニョは憧れの選手のプレーを思い描き、その再現を考えピッチに立っていたのだと思う。 [著者プロフィール] 徳原隆元(とくはら・たかもと)/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。80年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。
徳原隆元 / Takamoto Tokuhara